イエスの弟子たち

2019年02月17日
川崎 献一師
マルコによる福音書9:30~37

弟子という言葉を辞書で調べると「特定の師匠について、学問や技芸などの教えを受ける人」とあります。弟子という表現は古さを感じますが、今でも大相撲や芸人の世界などでは使われています。スポーツ界では監督またはコーチと選手という言い方もしています。弟子達は、何故イエス様に従ってきたのか?それはイエス様の人格、様々な奇跡を行う力から「この方についていきたい」というカリスマ性があったからでしょう。

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イエスの我慢

2019年02月10日
川崎 献一師
マルコによる福音書9:14~29

本日の19節、イエス様の「何と信仰のない時代なのか」という御言葉をどう受け止めましょうか?当時は、唯一神のユダヤ教徒が殆どの時代です。今の日本より遥かに宗教は盛んで神の律法も守られていた筈ですが、神から見たら本物の信仰ではないということでしょう。講解説教を行う中で、毎回イエス様の素晴らしさを学ぶと同時に弟子たちの不甲斐なさに気付かされます。他人事として「弟子たちは、どうしようもない連中だ」と見ることは簡単ですが、この弟子たちの在り方は現代の教会の在り方に繋げてみる必要を示されます。

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天の輝き

2019年02月03日
川崎 献一師
マルコによる福音書9:2~13

イエス様は責任を持って12弟子を選んでおられます。その中の3人には特別にイエス様と共に登山されました。高い山ということは、天国に近いという象徴です。元々、山とは神との交わりに集中する霊的な環境です。イエス様は、趣味で登山されたのではなく、目的意識がありました。それは、先週の箇所でかなり大胆なことを弟子たちに言われました。「十字架と復活の出来事」ですが、弟子たちには口止めをされました。また、群衆にも「神から与えられた各々の十字架を背負うように」とか永遠の命、再臨、ペンテコステの出来事まで予告されています。この神の御計画を初めて聞いた人々は、大いに戸惑ったことでしょう。メシア(救い主)と言えば、神の力によって現実のローマ植民地政策からの解放を促すリーダーというイメージがあります。

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ペトロから学ぶ

2019年01月27日
川崎 献一師
マルコによる福音書8:27~9:1

イエス様は、御自分を人々がどう思っているか気にされました。これは一般の人が自分をどう思っているか気にする次元とは違うでしょう。一般の人は、神の前では五十歩百歩です。全てが神からの賜物なのに、「自分には才能がある」とか「努力したから人とは違う」と誇るのは愚かなことです。神からの恵みの賜物と知らされた人は、自ずと謙虚にさせられます。イエス様は特別な方です。それも単なる預言者ではありません。周りの人々はイエス様のことを預言者として認めているに過ぎません。洗礼者ヨハネは、首を刎ねられて殺されましたが、イエス様に洗礼を授けた唯一の人ではあります。また、エリヤは旧約聖書の預言者で竜巻諸共、天に上げられた事実が神格化されていました。イエス様は、それらの意見を否定はされませんでしたが、敢えて弟子たちに問われました。そこで12弟子の代表であるペトロが答えました。「私も、偉大な預言者と思います」ではありません。預言者というのは惜しい答えかも知れませんが、正解ではありません。ペトロは正解を答えました。メシアとは神に油注がれた者、それも唯一無比の存在、救い主です。イエス様は、ここでも口止めをなさいました。救い主への人々の誤解を防ぐためです。誤解が生じるということは、神の御心と人の思いにはギャップがあります。多くの人々が思い描くメシアとは、植民地のユダヤ社会がローマの圧政から解放されることです。でも、神は政治的なことは表面的な現象であり、個人個人にある神の前での罪の問題を解決することこそ、メシア・イエスの最大の使命と思っておられます。

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何か見えるか?

2019年01月20日
川崎 献一師
マルコによる福音書8:22~26

本日、イエス様によって癒された盲人には、周りの人々の助けがありました。盲人なので、1人でイエス様の元には行けないからです。イエス様は、どんな病気でも癒される方という噂は広がっていました。それも病人に触れるだけで奇跡が起きるという噂です。盲人も、彼を連れてきた人々もイエス様を素直に求めて来ました。無神論者のように、疑い深い面はありません。それは噂通り、周りにも体験した人々が多くいたかも知れません。イエス様には医療費を払う必要もなく「触れて頂けるだけで」という信仰です。只、今回の癒しは瞬時ではありません。まず、人々から盲人を離しました。そして、村の外へ連れ出すという行為に盲人は従います。盲人の目に清い方の唾をつけます。両手を彼の頭でしょうか?置いたあとに問いかけます。本日のテーマです。すると徐々に視界が開けてきたようです。人が木のように見えたようです。更に歩いていると言いますから、通りがかりの人が見えたのでしょうか?その答えを聴いて、イエス様は再度、同じことをされました。これで普通の人の同じような視力になったという奇跡が起きました。もう、盲人ではありません。イエス様によって新しくされたのです。この体験は喜びです。村の人々にも伝えたいところをイエス様は戒められました。今までの講解説教でも学んだように、その癒しの体験が「御利益信仰で終わってほしくない」ためです。この人は、元々は村の人ではなかったようで、村の外にある実家に帰らせました。

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