イエスが飲む杯

2019年03月31日
川崎 献一師
マルコによる福音書10:35~45

杯と言えば多くの人が「お酒」を連想します。大人になれば、初めての飲酒では美味しいとは思わない人が多いものです。でも、飲み慣れて美味しく感じ始めます。イエス様にとって、杯を飲むことは受難と御存知です。洗礼を受けるとも表現されています。洗礼はキリスト教の儀式から始まった言葉です。そして、避けては通れない試練にも例えられ、一般社会でも使われる言葉です。ということは、洗礼を受ける時、苦しみを覚悟するのは当然です。教会で洗礼を受けた後、試練を受けて信仰から離れるなら、洗礼の意味を充分には分かっていないのでしょう。試練は大変だけど、神が共におられるから大丈夫、イエス様の十字架を仰いで忍耐して乗り越えようという信仰姿勢が必要です。

イエス様は十字架に掛けられることを究極の杯として位置付けておられます。ヤコブとヨハネが簡単に「できます」と言いますが、結果的にはこの2人も迫害を受けて殺されます。イエス様と同じです。でも、本日の時点では、この2人には洗礼理解がありません。多くの受洗者も最初はそうでしょう。勿論、現代はクリスチャンの迫害時代ではないので、「受洗するということは敵に殺されることも覚悟ですね」と牧師が洗礼を勧めることはないでしょう。  イエス様の十字架の試練を人間的には乗り越えたとは多くの人に思われていません。何故なら、十字架上で死なれてしまったこと自体が敗北と思われるからです。荊の冠を被らされ、鞭で打たれての拷問、更には重い十字架を担わされました。ゴルゴタの丘の十字架上では手足に釘を打たれ、悲痛な叫び声を上げて血も流されます。それでも、最期には天使が登場して、敵を倒しイエス様は十字架から降ろされ助けられたという話ではないのです。神の方法は、イエス様が死んでから3日目の朝に復活されるという勝利の出来事です。この奇跡によって、敗北と思われた試練を神が乗り越えさせたのです。信じられないでしょう。そして、イエス様は天に昇られ神の玉座に座られます。その左右に座る人はイエス様ご自身でさえ「私が決めることではない」と謙虚に言われます。天の父なる神にのみ、その権限があるということです。  その席に着きたいと願った兄弟2人の姿勢は、他の10人の弟子達を出し抜いて美味しい地位に着きたがる罪人らしい発想です。これで弟子達が分裂してしまっては、イエス様の弟子らしくはありません。それで、神の国の極意を悟らせるためにイエス様は一同を呼び寄せました。その御言葉の中で「偉くなりたい者は」という表現は、偉くなろうという姿勢自体は悪くないように聞こえます。これには、神の国に相応しい逆転の法則があります。それは異邦人の間では認められている価値観を覆す、逆転の発想です。  「支配」という言葉も、本来の支配は漢字にある通り「人を支えて、配慮すること」ですが、この世では権力を振るって人々を従わせることです。愛の支配ではなく、独裁的な支配を連想させます。また、誤解を恐れずにいうと実は神は究極的には独裁者なのです。愛の独裁者という言葉はないでしょうが、この世の終わりには、神の審判があります。これは神の主権によって成されます。クリスチャンにとっては救い主であられるイエス様が裁き主として再臨される時です。

その究極的な神の時までは、執行猶予期間として今の時があるのです。今は、人々の自由意志が神から重んじられている時です。そして、45節、イエス様は人類に仕えることを実行されました。再臨に対して初臨というのが、福音書のイエス様ですが、初臨の最期は十字架と復活です。まず、十字架の死を身代金に例えられています。神の子イエスの命には値段など付けられない筈です。御自分の地上での命を父なる神に献げられました。これが、本日のテーマです。毎月、第一主日に聖餐式を行います。その中で杯が配られますが、小さなグラスにつがれた葡萄液のことです。来週から2019年度に入ります。教会の標語聖句も変わります。その第1週目は、島 隆三師による聖餐式です。転任する私も、延岡使徒教会(宮崎県)の礼拝の中で、いきなり聖餐式です。イエス様が杯を飲まれたことを記念する聖餐式は、私達の信仰の中心を再確認させる時です。聖なる厳粛さの中からも神の愛を感じて、その愛への応答として新しい生活が始まりますように。

先頭に立って

2019年03月24日
川崎 献一師
マルコによる福音書10:32~34

本日のテーマは、イエス様のリーダーシップです。マルコによる福音書は、四福音書の中で一番先に書かれ、また一番短い福音書です。当時の時代背景は、イエス様に対して迫害の魔の手が既に伸びていました。マルコ伝からは分かりにくいでしょうが、ヨハネ伝にはイエス様への迫害についても書かれています。イエス様に石を投げる者もいました。これは石打ちの刑とし私刑(リンチ)を意味します。でも、まだ神の時が来ていないので捕まらないし、イエス様の死刑の方法は、合法的な十字架刑ということになっています。それはイエス様も御存知のことです。イエス様は、ユダヤの首都エルサレムへ上ろうとされています。ユダヤ教・最大の過越祭も予定されていて、ユダヤ教の指導者たちが陣取っている場所です。彼等は、イエス様に敵対どころか殺意まで持っている人々です。イエス様は、弟子たちを前にして恐る恐る行かれる様子ではありません。「弟子たちよ、私を守ってくれよ」という保身など微塵はもありません。だから、弟子たちは驚いているのです。従う者とは、12弟子の他にもイエス様に従う者達がいたのでしょう。彼等は恐れています。「イエスに従うのは、ここまでにしよう」と思ってもおかしくはありません。

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永遠の命

2019年03月17日
川崎 献一師
マルコによる福音書10:17~31

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神の国

2019年03月10日
川崎 献一師
マルコによる福音書10:13~16

本日のテーマ、日本宗教である神道の「神の国」を連想してしまうと的外れです。私達は「神風」ではなく、聖霊の風を信じる立場にいます。つまり、聖書の神、イエス様が宣教される中心テーマこそ神の国です。神の国=死後の天国と言う答えは、早とちりでしょう。天国は間違いではないですが、この現実の生活も含めた神の支配という意味での神の国です。死後まで待たなくとも、この地上も神が愛を持って造られた場所だからです。神の支配の中で、子ども達は軽んじられる傾向があります。聖書当時もそうです。人々はイエス様に触れるだけで子ども達が祝福されると思って連れてきたのです。この人々というのは、大人でしょう。親とか保護者とかは記されていません。身寄りがない子ども達だったかも知れません。

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イエスの結婚観

2019年03月03日
川崎 献一師
マルコによる福音書10:1~12

多くの人が持つ結婚観にはどんなものがあるでしょう?恋愛感情の成就や相性が合う人と生涯を共に歩む喜び、子孫繁栄などを連想しますか?でも、絶対的なものではありません。おしどり夫婦と呼ばれた人達が離婚することもあります。結婚自体は、神からの賜物で素晴らしいことでも、結婚生活が順調に行くとは限りません。それは信仰にも言えます。信仰が与えられることは感謝なことですが、信仰生活には波風が立つこともあります。試練に苦しみ、誘惑によって罪を犯したり、様々な思いから教会から離れることもあるでしょう。神は人類を試しておられます。信仰と結婚には関連があります。純愛が問われる結婚生活の場合は、夫と妻の関係ですが、それは信仰の場合も神と人との関係が純粋無垢であるか問われます。イエス様ご自身は人としては生涯独身でした。只、神としてイエス様は世末には花婿として花嫁を迎えに来られます。それで、人間イエスとして特定の女性と結婚する必要もなかったのです。イエス様の花嫁とは誰か?男女を越えて私達クリスチャンです。そして、イエス様の体なる教会を指します。

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