選ばれた喜び

2017年03月26日
川崎 献一師
ヨハネによる福音書15:11~17

多くのクリスチャンが伝道の定義を「イエス様の愛を福音(良き知らせ)として、この世の人達に伝えること」としていますが、明治時代の内村鑑三は、伝道とは「神に選ばれている魂を見つけ出すこと」と言いました。人の領域では、単純にどんな人にも伝えましょうでいいのですが、神の領域では、人にはわからない方法、摂理と呼ぶ深い神の選びがあることを内村氏は悟っていました。  

例えば、教会に行くことやキリスト教を信じることは、人の意志で行うという見方も出来ます。クリスチャンホームで育った人などは、周りの反対もなく何となく信仰生活が始まったような感じでしょうそれでも、試練や誘惑に負けて教会から離れた経験がある人なら、わかりやすい神の選びです。自分で選んでいたと思っていたことが錯覚であり、実は神に選ばれていたと感謝できる人は幸いです。選ばれていること自体に、神の愛が見出されるのです。 

イエス様は、弟子達を友とされましたが、人間的な対等な友人関係ではありません。それまでは、弟子達は僕(しもべ)でした。師弟関係のままだけなら、神とイエス様しか知り得ないことを罪人の弟子達に伝える必要はありません。だから、敢えて友と見なして下さったのです。今月の上町教会の暗唱聖句が13節ですが、次の14節では「私の命じること」と言われています。人間の友達関係で特に男の場合「俺とお前」という親しさから「やれ」とか「行ってこい」等、命令し合うこともあるでしょう。でも、イエス様に対して弟子達が「おい!イエス。俺の命令も聴け」とは言えません。イエス様の方から、友と呼んで下さるのは感謝すべきことですが、私達から言えば、やはりイエス様は、主です。主なる神、主イエスという信仰の対象です。神の命令ならば掟です。上から目線の厳しい言葉にも聞こえますが、愛の掟なら、喜んで従えます。人の自由をも重んじられる神の不思議な選び、罪が赦されて、天国へ行ける特権が信者には、恵みによって与えられています 

既に清い

2017年03月19日
川崎 献一師

イエス様は肝心な話を雄弁に語られました。イエス様と弟子達の関係を葡萄の木で例えています。イエス様は人間でもあるので、地上に植えられた木として謙虚に御自分を例えられています。農夫は、養って下さる父なる神です。イエス様を信じている人こそ、葡萄の幹に繋がっている枝です。これは、自動的ではなく、繋がりを拒む人は、イエス様から離れる自由もあります。試練と誘惑は、人を信仰から離れさせます。弟子達は、イエス様が十字架に掛かる直前に迫害するユダヤ人達を恐れた結果、イエス様を離れてしまい、試練に負けたのです。それでは、枝から実は出来ません。牧師である私は、神学校で「1度、清められた人も堕落は有り得る」と学びました。自動的に清くなるのではなく、清い方との交わりを絶えず行う。つまり、欠かせないのは祈りによって、イエス様の愛を受けて、神と人を愛することこそ、実を結ぶことです。

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異邦人

2017年03月12日
川崎 献一師
創世記19:30~38

昔、「異邦人」という曲が流行りました。久保田早紀という女性が歌っていましたが、当時は未信者でした。その後、洗礼を受けて結婚もしました。今では、本名の久米小百合で、有名な音楽伝道者となっています。幼少期から教会へ通っていたという彼女は、テレビに出ていた20才頃は、「異邦人」を笑顔もなく無表情に歌って神秘性もありました。今は、イエス様の福音を喜んで表情も豊かです。「異邦人」という曲は、自分からは歌わずに、むしろ今は積極的に神を賛美することに専念されています。

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愛の逃避行

2017年02月05日
川崎 献一師
創世記19:1~29

このテーマは、男女の駆け落ち話にも聞こえますが、男女の愛ではありません。神の愛の招きです。天使2人が神から遣わされました。救われるためには、ソドムという町から逃げよという神の御心をロトに伝えるためにです。人の姿をとった天使が来た時、ロトはソドムに門の所にいました。ロトはイエス様の先祖に当たるアブラハムの甥で、しばらくはアブラハムと行動を共にしていましたが、召使同士が争うことから途中で別れました。そして、最初は「主の園」にように見えたソドムに住むことにしました。物質的には栄えて人口も多かったソドムですが、道徳的には堕落していました。叔父アブラハムのように神を畏れている人とは、明らかに違う人々の罪深い快楽的生活にロトは心を痛めていました。        

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