愛の掟

2018年10月28日
川崎 献一師
マルコによる福音書7:1~13

伝道する時に一番強調したいテーマは神の愛です。その神には掟があります。掟という表現が堅いならばルールという言葉を使ってもいいでしょう。神は、最初からルールが多い世界を造られたわけではありません。最初の人類アダムとエバには唯一の規則としてエデンの園の中央にある木の実だけは食べてはいけないと言われました。でも、人類は誘惑者である蛇の言葉に従い、唯一の規則を破りました。それが罪であり、その罪も多様化したため、多くの掟が必要になりました。その掟を律法と呼びます。神は掟で人類を縛り、人々を苦しめることを目的にはされていません。神が律法を与えられたのは、人類が正しく生かされるための手段なのです。本日の8節に「神の掟」とありますが、神=愛の方なので、テーマは「愛の掟」としました。

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湖上歩行

2018年10月21日
川崎 献一師
マルコによる福音書6:45~56

イエス様は、奇跡の給食の後、弟子達を強いて船に乗せたとあります。神の意図があったのです。それが本日のテーマです。「弟子達は、主は船には乗らないのか?」と思ったかも知れません。イエス様は、その後、山に行かれました。神に祈るためです。イエス様は、神との交わりが大好きなのです。私達もイエス様を見倣って絶えず、神に祈っているでしょうか?人間イエスとしては、本日の奇跡を行う前に、神に祈って力を受ける必要があったのでしょう。この奇跡は、普通の人には出来ません。時間が経って、夕刻になりました。船が湖の真ん中に出ていたということは、陸地におられるイエス様は、すぐには弟子達とは会えません。泳いで弟子達に会いに行かれる考えもありません。神は逆風を送られました。弟子達は、夜中に船に乗せられたままで、漕ぐのに困難を覚えています。夕方から夜明けまで、弟子達は長時間も船に乗っています。これは、イエス様の姿がなくても、いずれ独り立ちをすべき弟子達への神からの訓練です。そこにイエス様が現れたのです。別の船に乗って来たのでしょうか?それとも、必死の形相で弟子達を助けるために泳いで来られたとも書いてありません。何と、湖の上を歩いておられたのです。そして、すぐ弟子達の所へは来なくて通り過ぎようとされました。これを見て、弟子達は「幽霊だ」と思い叫んだことに対し、さすがにイエス様は反応されました。

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奇跡の給食

2018年10月14日
川崎 献一師
マルコによる福音書6:30~44

約2000年前の聖書時代は、今の日本より生活レベルはかなり低かったことでしょう。そんな中でイエス様の弟子達は使徒として、神の教えを伝え病の癒しを方々の場所で行ってきました。イエス様への報告義務も行い、弟子たちは食事も出来ない忙しさだったので、人里離れた場所へ行くようにイエス様に言われました。と同時にイエス様と弟子達に対する「追っかけ」の人々がいました。その数は10人、20人ではありません。男だけで5000人と44節にあります。男性中心の社会だったので、大人の男のみを対象に数えたようです、更に、女、子どもを入れると1万人以上はいた筈です。イエス様も疲れておられたでしょうが、この人達を無視できませんでした。「飼い主のいない羊」なら「私が飼い主になろう」と思われたのでしょう。憐みの心で、更に教え始められました。イエス様の教えも大事ですが、群衆は空腹です。そこで35節、弟子たちがイエス様に切り出しました。教えは充分、話されたので、解散させて各々が食事をとればいいという弟子たちの本音には「早く、この場から解放されて自分たちも何か食べたい」とも読み取れます。37節のイエス様の御言葉に弟子達は驚きます。弟子達には、お金はありません。200デナリオンとは分かりやすく現代の日本円に換算すると200万円位でしょう。イエス様は、今まで様々な奇跡をされましたが、食べ物が増えるなんて奇跡は弟子達も考えていなかった筈です。  38節、イエス様は現状を確認されます。パンが全然ないわけでもないだろうと思われたのか、確かに0ではありませんでしたがが、パン5つと魚二匹です。これでは無いに等しい数字です。

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殉教

2018年10月07日
川崎 献一師
マルコによる福音書6:14~29

毎年、10月第一主日は「世界宣教の日」そして「世界聖餐日」です。イスラエルで発生したキリスト教ですが、初代教会の伝道者が神に用いられて、まず周辺の国々へ福音が伝わっていきます。イエス様の12弟子で一番、遠い国へ遣わされたのはトマスです。インドで殉教しています。殉教とは狭い意味では、福音伝道をしていたら迫害を受けて殺されることです。何よりも十字架で死なれたイエス様の似姿として霊的には光栄なことです。イエス様の血は、全世界、全時代、全人類のために流されました。それで、年に一度同じ日に世界共通の聖餐日が設定されたのです。広い意味では別に誰かに殺されなくても殉教は有り得ます。今の日本では、信教の自由が保証されキリスト教への迫害もありませんから、最期まで信仰を貫いて神を証し、死ぬことを召天 として受け入れるならば それも殉教でしょう。

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