避け所

2017年011月26日
川崎 献一師
創世記27:41~46

逃げたり、避けたりすることは罪でしょうか?確かに責任ある仕事や努力すべきことを途中で辞めるのはよくありませんが、その人の性格や環境からくる心の状態、また我慢の限界もあります。ストレス社会の中で多くの人が、避け所を必要としています。お金の問題、人間関係、病気など、その苦難からの解放は当面の課題です。人によっては趣味として、または気分転換に、お酒、カラオケ、お喋り、ドライブ、旅行等、ストレス解消を避け所とします。他にも大地震があった時、建物が崩れる前に頑丈な体育館等に避難することは頷ける話です。

<本日の聖書箇所では、祝福を兄エサウから奪ったヤコブが、兄から殺意まで持たれた深刻な展開です。神に祝福されたヤコブであっても、策略によって得たものなら、兄に恨まれても仕方ない負い目を持ったわけです。ヤコブの策略に対し、父イサクと兄エサウでは反応が違います。直接、息子ヤコブに騙されたイサクですが、不思議にもヤコブへの怒りはありません。元々は妻リベカへの神の啓示に対し、イサクは頑なでした。しかし、リベカ、ヤコブがいない場所でエサウへ祝福を与えようとしたことは自己実現からの野望と悟らされた出来事がリベカ、ヤコブの策略だったのです。つまり、自分の罪を認め、ヤコブに騙されても仕方ない姿勢だったという悔い改めです。これは神の深い摂理です。一方、祝福を奪われたエサウにはイサクのような信仰はありません。人間的に納得がいかないというレベルの感情に支配されています。祝福式のやり直しをしなかった父へも怒っているのか?聖書には、父が死んだら弟に復讐するエサウの殺意をはっきり記しています。実は表面的にはヤコブが悪くとも、神の啓示を認めなかったイサクや長子の権利を軽んじたエサウの方に問題があります。信仰を抜きにしたら、この問題の解決は簡単でしょうか?策略を実行したのはヤコブでも、そうさせたのは母親です。リベカとヤコブがエサウに謝り、神からの祝福を返上すればいいのです。しかし、神に選ばれているのはヤコブと知っている両親にとっては、不信仰な姿勢です。物事を丸く収めたい人にとっては信仰が邪魔にも思えます。信仰は、神に対するものなので、妥協は禁物です。エサウが心の中で言ったことが、何故かリベカに聴こえました。エサウは、独り言で恐ろしい本音を口にしたのでしょうか?本日のテキストでは、エサウとリベカの言葉だけが書かれています。リベカにとっては、ヤコブの方を愛していたとはいえ、エサウも実の子です。エサウがヤコブを殺したら、殺人者となったエサウも捕えられることになると心配しました。ヤコブをリベカの兄、つまりヤコブの伯父の所へ避難させようとします。リベカの判断も早計です。エサウは、父親が死んだらヤコブを殺すと言っているので、父が死ぬまでは大丈夫とは思わなかったのか?エサウもリベカも感情的になっています。エサウも、一時の感情で物騒な思いになっただけなのか?ある父親が、自分の子どもが従わない時に「殺すぞ!」とは言っても「実際には殺さない、そんな言葉を吐きたくなっただけ、愛情の裏返し」と言っていました。しかし、ニュースでは家族間の殺人事件も聞きますから、どんな展開になるかは分かりません。エサウの性格を知っていてリベカは、恐れたのでしょうか?/p>

リベカは、ヤコブのためには指示を出せましたが、自分の問題になると弱くなります。息子、それも双子の間からの殺人事件を回避できたリベカにとって「一難去ってまた一難」が人生です。最後の46節、エサウの二人の妻との辛い人間関係で夫イサクに愚痴をこぼしています。生きるのも嫌なくらいの悪い状態、女同士、姑と嫁なので想像できるでしょうか?それ以上に真の神を信じていない嫁たちとは、価値観が全然合わないのでしょう。その先入観からヤコブには、ヘト人の女とは結婚してほしくないと言っています。そのためにも、ヤコブはこの土地から出て行った方が賢明ということになります。

新約時代の私達の信仰生活も、何が起きるかは分かりません。只、究極的な    約束は確かです。主イエスを信じたら、罪が赦され永遠の命が与えられてい  るいう真実。これが最も肝心なことなのです。この十字架の愛に希望を持ち  地上の現実にも向き合います。その現実が辛い時の避け所こそ、神の懐(ふところ)で   す。御言葉であり、祈りです。そして、恵みの手段として、皆様も是非、主  の体なる教会を避け所として行ってみましょう。

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