時が満ちた

2018年01月14日
川崎 献一師
マルコによる福音書1:9~15

本日のテキストは、肝心な出来事が淡々と記されています。あまりにも簡単にまとめてあるので、詳細を読みたければ他の福音書にも載っています。人類の想定外の方法で、神が人と成られました。聖なる神には罪がありませんから、罪人ではない方が神によって世に遣わされたのです。姿だけなら人形があります。人形には罪がありませんが、肝心な命がありません。皆さんは、人形と人間はどちらが好きですか?本来なら命がある人間の方が好きな筈です。しかし、嫌いな人間なら人形の方がずーっといいと思ってしまいます。嫌いな人には罪があるから嫌なのでしょうか?いや、好きな人にも罪はあります。つまり、自分を規準にして人の好き嫌いを判断している自己中心性は聖書が告げる罪です。

洗礼というのは、罪の悔改めが伴うものですが、イエス様が受けた洗礼の意味は例外です。イエス様は、人類の罪を引き受ける覚悟の意味での洗礼です。罪自体は関係してくるのですが、御自分の罪などはありません。クリスチャンが洗礼を受けて新しい人生が始まることに対し、イエス様は、クリスマスに生まれたことで神が何と人生を体験され始めました。全く自由な霊なる神が、肉体に縛られる不自由な体験をも私達と同じようにしてくださったのです。そして、公に現れる前の30年間の時が満ちて(本日のテーマ)十字架の死を前にした3年間の公生涯を始めるにあたり、洗礼を受けられたのです。洗礼を授けるヨハネにとっては畏れ多かったことでしょう。これは全て父なる神の御心です。11節の御言葉が証明しています。この場に居合わせた人達は、この天からの声を聴いているのです。

イエス様は、神の時に従って歩まれました。荒れ野での40日間も神が設定された時です。人は誘惑を受ける者ですが、イエス様もサタンからの直接の誘惑を受けられました。私達の多くが、その誘惑に負けてしまいますが、イエス様は誘惑にも勝利されました。聖書に出てくる野獣とは何を意味するのでしょうか?世の中には野獣のような厄介な存在があるものです。イエス様は野獣の中に生きておられても、大丈夫だったのです。人間イエスには弱さはありましたが、天使達が仕えていたので、イエス様は支えられました。私達も自分一人で信仰生活を送っているのではありません。何よりも神が共におられますし、天使のような存在、人間たちも用いられ支え合い祈り合う関係が大事です。

イエス様の最初の登場の時は満ちました。神の国の到来です。福音とは神の国の話です。「神の国は近づいた」ことは事実です。その神の国に入るのには「悔改めて福音を信じなさい」というイエス様の命令に従うことです。自動的に信じていない人までも神の国に入れるのではありません。聖書は、万人救済説を否定します。神の愛に対して、信仰を持って応えることを神は望まれているからです。せっかく、時代を越えて日本にまで福音は伝わっているのです。神の国が近づいたのに罪を悔改めず、福音も信じないとは非常に勿体無い話です。「年をとりたくない、死にたくない?」死後の天国は時間を越えた場所です。天使も年をとらない若い姿ですし、イエス様も年をとられる前の33才の若さで1度、死んで下さったことにも神の御心があります。まだ、神を信じていない人にとっては「神を信じる時」こそ「時が満ちた」と喜んで言える時でしょう。

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