招きと従順

2017年01月21日
川崎 献一師
マルコによる福音書1:16~20

招くという漢字は手偏に「召命」の「召」です。この「召」は神からの呼びかけ、それも命令です。商売では、客の来店を望んでいますが、命令するわけにはいきません。「この店に、また来なさい」と言われたら「何という態度だ。二度と行かない」ということにもなります。 只、信頼関係をもたらす場合は、例外です。有名なラーメン店で、店主が不愛想でもラーメンの味が格別にいい、本来なら「ありがとうございます。」と客に言うところ「ありがとう。また来てね」と馴れ馴れしく言っても許されるキャラクターの人もいます。逆に客の態度を注意する場合もあります。「ラーメンを静かに味わって食べろ。携帯電話も使うな」という上から目線です。もし、この態度が傲慢で嫌なら「もう来なくていい」という位、味に自身を持っているのです。他に客はいる、来たい人だけ来なさいと黙って食べてラーメンの味に集中したくなると客に思わせる程、美味しいラーメンなのでしょう。  

イエス様の到来は、このラーメン以上の価値が勿論あります。神の子が神に直接、遣わされたことを聖書では福音というのです。日本人の多くが御利益を求めますが、聖書でも従順に祈り求めれば願いも叶います。イエス様の弟子は12人が中心となっていきます。それ以外にも弟子は多数いましたが、離れていく人も出てきます。12とは聖書の完全数ですが、最初から12人を選ばれたのではありません。まず、その三分の一の4人です。弟子達は、漁師の仕事をしながら、つまり片手間にイエス様に従ったのではありません。漁師をやめて、家も出たのです。20節に父親と雇い人達を残したことが記されています。父は「おい、どこに行くんだ?」と思ったかも知れません。イエス様のカリスマ性、神の権威の下に古い自分の居場所を捨てて、新しい人生をイエス様に委ね始めたのです。

福音書は、イエス様の素晴らしさを賛美すると共に弟子達の失敗を通して多くを学べます。弟子達は、イエス様に何度も叱られましたが、従順でした。他のユダヤ人に捕まる恐怖からイエス様を見捨て、最期にはユダのような裏切り者も出ますが、不思議にもイエス様に普段から逆らう弟子はいませんでした。この素直な姿勢は見倣うべきでしょう。イエス様の御言葉に理解できなくても、この人の招きには応えたいという従順さです。偉い人の招きだったことを神からの召命と知った時に、ペトロは「あなたこそ、生ける神の子」と信仰告白までしています。そして、神の時が来て、聖霊を受けて本物の献身者としての働きを弟子たちはしていきます。

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