イエスの神癒

2018年02月04日
川崎 献一師
マルコによる福音書1:29~34

先週のテキストでは、イエス様が「汚れた霊に取りつかれた男」を癒されました。それは御言葉一つで、神の権威によるものでした。それが安息日であったことが後々、問題になります。ユダヤ教では安息日に働くことは禁じられていました。その後、イエス様は弟子になったばかりの男の家に行きました。それは、シモンの姑、つまり義理の母を癒すためです。人間的には偶然、イエス様が行かれたらシモンの姑が発熱で「ちょうどいい、イエス様に治して頂こう」という話しです。しかし、全てを支配される神にとって偶然などありません。イエス様にとっては、神の予定にあることを行われた必然なのです。イエス様は、これから多くの病人を癒される医者のような働きをされるわけですが、まず身内の者、弟子の家族を癒される御業をなさいました。

<イエス様は医者の道具、例えば現代なら聴診器や注射針など持っておられません。その場所に行かれて、シモンの姑に触れられて治療は終了です。「いつまで寝ているのか。起きて食事の準備をしなさい」と言わんばかりに彼女の手を取って起こされました。同時に熱が去ったところに本日のテーマがあります。普通の医者が、これをしたらどうでしょう?「熱があるから寝ているのに、何をするのだ」と周りの人に思われます。これで熱が引いていなかったら怒られます。でも、現実は解熱していました。当時は体温計などもなかったので、オデコに手を当てたら熱くない、怠かった体もスッキリして姑は喜んで一同をもてなした筈です。これは、シモンの家族にとっても大きな証しになりました。神癒の素晴らしさを体験したので、このイエス様になら従ってもいいという「お墨付き」を与えた出来事です。/p>

< イエス様は、神の時に従って歩まれています。根本療法である十字架に御自分が掛けられる話をなさるのにも神の時があります。それも、まず弟子達に話されますが、理解されませんでした。本日の箇所では、12弟子が揃う前の段階です。まず、多くの人々が病んでいる状態を見て、憐れに思われる方がイエス様です。それを神に呪われているから病気だと決めつける当時の宗教指導者とは明らかに違います。今でも、イエス様は生きておられます。病気の人がいたら、イエス様の御名によって祈る私達でありたいものです。現代の医者や病院の技術が用いられることもあります。 /p>

対症療法も必要があってその都度に感謝すべきことですが、私達はイエス様の根本療法に当たる究極的な恵みを知っています。聖餐式(上町教会では、第一日曜日に執行)は、その高価な恵みに感謝する時です。人類の魂を癒すには罪からの赦し、いずれ全ての罪からも解放される時があります。そのことこそ、イエス様の究極の神癒です。

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