宣教と癒し

2018年02月11日
川崎 献一師
マルコによる福音書1:35~45

 イエス様は「早寝早起き」の方だったでしょう。現代のような娯楽もなく、煌々と電気が夜遅くまでついている環境もなかったでしょう。日没になったら、自然と眠くなって床に就くことが習慣にもなります。現代より物質的な誘惑は、極めて少なかった筈です。イエス様は罪はなくても日々の働きからの疲れはありました。その疲れが癒される場所が祈りの時です。目が覚めたら、まず神に祈りたいという姿勢は、イエス様が神をどれ程、慕っておられたかです。私達は、神よりも自分を優先してしまいます。弟子達は、イエス様が人気者になっておられることを、どう思っていたことでしょう。自分が従っている師匠を多くの人が必要としている現実は誇らしいものです。でも、イエス様の目的は宣教です。一箇所に留まっているわけにはいきません。会堂を巡回して、肝心な宣教をなさって更に悪霊まで追い出された、つまり病の癒しも、多くの人々の需要に応えて行われたのです。/p>

現実の優先順位は、テーマとは逆でしょう。「癒しと宣教」という感覚でイエス様に殆どの人が近寄って行った筈です。つまり、癒しを体験したら「宣教」の言葉も聴いてもいいという姿勢です。確かに病の症状に苦しんでいる状態で話を聴くのも大変です。中には、耳が聞こえない人もいました。イエス様は憐み深く、本来の優先順位を逆にして先に癒しの御業を行われたのです。それも、瞬時に癒されたので、その後は時間をかけて宣教を聴くことをイエス様は喜ばれます。イエス様、つまり神の御心としては宣教が何よりも大事、そして癒しを求める者には奇跡をも行われることで筋が通っているのです。でも、人の思いとしては癒しが何よりも大事、そして、そんな「癒し主」の話なら聞く価値はあるという現実から神の御心と人の思いは一致していないのです。 

教会は率先して福音伝道を行いますが、人々が常時は集まりにくいのは本日の聖書からも学べます。イエス様の福音(グッドニュース)が肉体または心の病の癒しが中心で次々と癒しが実現しているなら、人々は神を慕い求めるでしょう。教会というより、新しい病院を訪れる意味で賑わうようになります。只、福音の中心は、罪の問題の解決です。そのことが目的でイエス様は来られたのです。が、それでは、罪意識が弱い人々の需要にはなりません。実は罪がなければ、病気を始め負の出来事は世にはないのです。この世は「罪がないエデンの園」ではありません。その真理を聖書は示しています。教会は世間の人々との価値観のギャップを知った上で、宣教を行い続けます。宣教の言葉は知識としては人に届くことはあるでしょう。でも、魂に届かせるのは神御自身です。言い換えればキリスト教を理解はしても、信仰には至らない人が大多数です。魂が救われて罪の悔い改めが起きるのは聖霊の働きです。3年以上もイエス様と交わっていた弟子たちでも、イエス様の昇天後、聖霊を受けて初めて真の信者に造り替えられたからです。

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