罪人の似姿

2018年02月18日
川崎 献一師
イザヤ書53章

今年は、2月14日からレント(キリストの受難を特に覚える時期)に入りました。その日は世間ではバレンタインデーでした。聖書には直接は関係ありませんが、キリスト教国から始まった風習とも言われています。それを日本の商売が上手く利用してチョコレートを渡したり、受け取ったりする行事にしたようですそして、近年ではイースタ―も「お祝い事」として日本でも商売化されていますが、イースタ―前のレントに関しては沈黙しています。レントの意味を説明したら、「商売としては成り立たない話」だからでしょう。キリストの十字架の苦しみと聞いて「暗い出来事だ。聞かなかったことにする」という気持ちになります。

クリスチャンは「イエス様の似姿」を目指します。似姿ということは、似ていても本人ではないということです。よくテレビで、有名人の物まねをする人が出てきますが、確かによく似ている程、感心はします。例えば、郷ひろみの熱烈なファンにとって、彼にそっくりで本人以上に歌が上手い人を見れたから満足ではないしょう。やはり、本人を見たい筈ですし、更にコンサートへ行って応援したいものです。

クリスチャンにとって最高の誉め言葉は「イエス様みたい」と言われることです。そのイエス様とは、どんな人も愛する方、赦す方、そして父なる神に祈られる方です。只、罪に対しては厳しい方です。イエス様は、弟子達を戒められ、宗教指導者にも物怖じせず、神の御心を伝えました。その結果、十字架の道を歩まれることになったのです。これが神の道、献身です。世の人は、自己保身を重んじます。逆にイエス様には保身などはありませんでした。イエス様が代わりに十字架に掛けられたことから、私達は十字架に掛かれとは言われません。只、十字架を担えとは言われています。

印象としては重苦しい本日のテキストですが、希望を語る聖句も含まれています。5節の後半と11節、イエス様は多くの人々が救われるためには、御自身の命を献げることを喜びとされる方なのです。12節の戦利品とは、十字架の出来事は勝利宣言を意味しています。このイエス様の贖罪を信じる人には死からの復活の出来事を約束として与えられているのです。

 レントは主の受難を強調する時期ですが、「報いなどは全くない。罪人は滅ぼされて当然。大いに苦しめ。そして最期には地獄へ落ちろ」ではありません。イエス様ご自身も、復活&永遠の命の希望を再三、語られてきました。でも、その前の苦しみも死をも必要なこととして体験されたのです。試練というのは、出口が見えない長いトンネルの中を歩んでいるように思えます。道が真っ直ぐじゃないと、出口の光が見えません。復活の出来事は輝かしい神の光です。その約束を御言葉によって励まされるからこそ、今の試練をも耐えられるのです。苦しみで終わらない喜びを信じつつも、苦しみに遭われた主の受難に向き合うバランスがとれた信仰こそ大事です。イエス様は罪人でもないのに罪人の似姿になって下さってことを感謝しましょう。逆に私達を清いイエス様の似姿にして下さいとイエス様の御名によって祈っていきましょう。

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