地震と救い

2018年03月11日
川崎 献一師
使徒言行録16:25~34

日本は地震大国です。2011年3月11日14:46分に想定外の規模の地震が起きました。「3・11」と言えば東日本大震災のことです。毎年、必ずレント(キリストの受難を深く想う時期)に入っています。讃美歌21の311番は、大地震とレントを同時に連想させます。今年は震災後、丸7年を迎えます。7という数字は聖書では「完全」を意味しています。あの日から暫くは、テレビでは震災の報道一色となりました。原発事故も深刻ですが、津波の力も壮絶でした。旧約聖書のノアの時代の大洪水を連想したクリスチャンもおられるでしょう。人類の無力さをも痛感した出来事でした。只、あの悲惨な映像はトラウマになるということから、いつの日からかテレビ局はビデオ映像を流さなくなりました。被害に直接遭われた方々にとっては、見たくない映像です。その配慮からの自粛は必要なことでしょう。

地震はいつも突然です。聖書にも大地震とあります。当時は、今のような耐震建築の技術などはありませんから、牢の戸も開き、囚人の鎖まで外れたとあります。パウロとシラスというクリスチャンは投獄されていたのです。でも、この2人は不自由な目に遭っているのに凹むどころか、神を賛美し祈っています。捕らえられたことまでイエス様に似ているという光栄に与ったことを感謝しているのです。 この不思議な価値観は、他の囚人にも影響を与えました。2人が歌っている内容は神を賛美しているのです。「神は何故、こんな目に遭わせた!」いう愚痴が歌詞になっている筈がありません。囚人が聞き入るような神を讃えた素晴らしい歌詞に違いありません。囚人の囚は、口という字の中に人という字が入っています。囲いに塞がれてしまい、人の自由がないことを示しています。それでも、囚人となったパウロ達は自由に神を賛美しました。体は不自由でも、魂は自由です。その御心に適う信仰から神が助けて下さったのです。他の囚人たちも逃げるチャンスが与えられましたが、聖書は看守にスポットを当てています。囚人を脱獄させてしまったら、当時の法律では死罪に当たります。それで看守は自ら命を絶とうとしました。パウロは、看守の早まった行動を止めました。パウロも囚人たちも逃げなかったのです。

真夜中の地震というのは恐ろしいものです。東日本大震災は、日中でしたが、もし夜中にあんな地震が起きていたら、被災の規模は更に大きかったことでしょう。看守は、この光がない非常時にも落ち着いているパウロを見てひれ伏しました。この2人を捕まえた高官たちこそ、間違っていたと思ったかも知れません。パウロ達が伝えていた神、つまりイエス様の福音こそ、人を救う道だと思い直しました。囚人のパウロ達を先生と呼んで、謙虚に救いの道を問うています。  「家族まで救われる」と聞いて看守は、真夜中でもパウロ達を家の人と会わせたようです。そして、パウロは説教しました。家の人で、この話を聴いていない人はいません。そのお礼からか、パウロ達は迫害を受けて何度も鞭で打たれた傷を看守が洗ってくれました。洗礼の「洗」も洗うという漢字です。肉体の傷を洗ってくれた看守に、パウロは霊的な傷である罪の汚れを落とす儀式・洗礼を授けたのです。

本日のような展開は、現代の常識からは考えられません。地震が起きて、囚人が逃げてしまう危険な状態になりました。そんな中で看守は、仕事中なのに伝道者の話を家族と共に聴いて更に洗礼まで受けました。そして、パウロ達は看守の自宅に招かれ、食事を出され祝会が行われました。時代背景の違いを越えて、この看守の魂が救われたきっかけは大地震だったのです。真夜中の出来事に、神の光が射しこんだ喜びの時が備えられていました。  地震に限らず、台風や大雪被害、竜巻も怖いものです。自然災害のみならず事件や事故など含め何が起きるか分からないのが世の中です。神の御計画も私達には分かりません。只、肝心なことはイエス様の十字架と復活への信仰です。それだけで 罪が赦され、永遠の命が与えられます。その信仰は、パウロのように牢屋に入っても、地震による被災があっても大丈夫な霊的な備えが必要です。そして、各々の家族への信仰継承、多くの人々への伝道のために教会では祈りが続けられています。

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