罪人を招く

2018年04月15日
川崎 献一師
マルコによる福音書2:13~17

聖書では「つみびと」と表現しますが、この世では「ざいにん」と読むことの方が多いでしょう。私は宮崎刑務所で教誨師をしたことがあります。毎回、小さな教室に受刑者が集って伝道礼拝を行っていました。受刑者に聖書を読んでもらう時、聖書には振り仮名が書いてあるのですが、老眼で見えにくいのか「ざいにん」と読む人が多くいました。この経験から同じ漢字でも読み方が違うので、「ざいにん」は、この世の法律を犯して刑務所に入っている人。「つみびと」は聖書が告げる相手、つまり人間=どんな人でも罪人というイメージを持ってしまいます。

イエス様は、レビという人を召し出されました。マタイとも呼ばれる12弟子の一人です。イエス様の弟子になるような資質がある人でしょうか?ユダヤ教の人から見たら「とんでもない人」です。なぜなら、収税人という罪人だからです。レビは、心が満たされない日々を送っていたことでしょう。お金はあります。収税人ということは、ローマの手先となってユダヤ人達から税金を取って、ローマ政府からの給与で生活していたのです。ユダヤ人でありながら、ローマの神々という偶像が刻印されたコインも取り扱っていました。偶像崇拝に厳しいユダヤ人から罪人扱いされても仕方ない立場だったのです。それでも、収税人を辞められないのは、お金を稼げるし、こんな罪人をユダヤ人達は受け入れてはくれないからです。でも、イエス様はユダヤ人ですが違いました。最初から12弟子の一人として神はレビを選んでおられていたのです。選ばれる資質などはなくとも、神からの召命があるかどうかです。同じユダヤ人ならイエス様は、レビを無視なさる筈なのに、イエス様はレビを愛しておられ、更に献身を促されました。「収税人など、神が選ばれる筈はない」という考えは、罪人のものです。神からの召命が先立って、後から聖霊の力によって「相応しい献身者」へ造り変えられていくのです。

律法学者が始末に悪いのは、聖書に照らして自分達を正しいと思っているため、罪人意識などないことです。神に選ばれていない異邦人や罪人と交わっては自分も汚れると思っています。イエス様は、逆です。異邦人をも愛され、積極的に罪人と交わっておられます。律法学者たちも罪人ですから、その罪人にも向き合っておられます。16節、イエス様本人に直接、訊く勇気がないのか律法学者はイエス様とは向き合わず弟子達に質問しています。弟子達は答えに困ったかも知れません。律法的には、イエス様の行為は間違っているかも知れないからです。でも、その律法とは罪人が守るべきものです。イエス様には罪がないので、律法を越えたことをされても構わないのです。イエス様の登場は、新しい時代の到来だからです。旧約の律法中心の世界は終わり、イエス様を信じた上で、律法に従う時代がきたからです。

17節の前半は当時の諺です。当然のことを言われています。丈夫な人には医者は要らないでしょう。病院へ行って「今日は、どうされましたか?」と訊かれ「体のどこも悪くないのに来ました」と言ったら医者も看護師も困るでしょう。他の患者も診察すべき時にそれこそ、迷惑な話です。でも、後半はイエス様独特の御言葉です。律法学者への腐肉も込められています。正しい人は私の招きには応じないだろうと。正しい人などは、イエス様以外にはいませんから正確な表現をすると「自分を正しいと思っている者は、私の招きなど必要とは思わないだろうと」いうことです。律法学者であっても、自分を罪人と認めるなら私の必要性を知るという逆説のメッセージでもあります。つまり、罪の悔改めを促しておられます。私達も、礼拝に出ているということはイエス様に招かれた罪人です。謙虚に歩みましょう。そのイエス様の十字架の愛を信じた人が、赦された罪人です。

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