イエスの戒め

2018年05月13日
川崎 献一師
マルコによる福音書3:7~12

母の日です。十戒の第4条にも「父母を敬いなさい」とあります。厳格な父は、元々敬われるべき存在でした。母は、女性ですので聖書時代から社会的にも女性は差別されてきました。それで「父の日」以上に「母の日」が強調されるのでしょうか?イエス様は母に対しても愛の方でした。真の父は神ですが、目に見える育ての父はヨセフです。しかし、ヨセフは早死にしたと言われています。イエス様は母マリアにも弟子達にも、他の人達にも差別なく接しておられました。差別を聖別と称するファリサイ派の人々とは、反対の姿勢です。ファリサイ派と対立しつつも、イエス様は神の御業を進めます。安息日でも構わず、働かれます。そんな噂は、口コミであらゆる地方に広まっていました。イエス様は、自由な方です。「今日は、安息日だから休業」ということはないのです。群衆は「イエス様は、ユダヤ教の律法など破って、私達の病気を癒して下さる方」と勘違いをした人もいたかも知れません。イエス様の自由な姿勢は、どこからくるものでしょうか?28節で学んだ「安息日の主」ということは安息日を否定はされていません。安息日の中心となるのは、主なる神です。そして、神の子イエス様です。また、イエス様ご自身が本日のテーマにあるように戒めを重んじられる方です。

イエス様は、厳格なる父なる神の御心を踏まえた上で、母のような面もある神の愛を実践されていました。その分かりやすい御業が病気の癒しです。人類になぜ病気があるのか?それは人類の罪の結果です。罪とは魂の病ですが、それは肉体にも精神にも及んでいます。イエス様が安息日を破ったと思われても、なぜ捕まらなかったか?群衆がイエス様を支持していたからです。群衆と呼ぶからには膨大な人数です。宗教指導者達の人数の比ではありません。何万人という者たちを納得させるには合法的な手段つまり、イエス様を死刑執行にするための悪知恵が必要です。群衆の目的は病の癒しという御利益的な求めですが、イエス様は排除されません。只、物理的には大変な状態になっているので、9節のような御言葉もあります。それでも、イエス様に触れるだけで癒されるのです。むしろ、イエス様には、群衆に御言葉を聴いてほしいという御心があります。癒しは短時間それも一瞬の御業もありますが、御言葉はイエス様に向き合ってじっくりと聴くべきものです。

イエス様の戒めから「本当のことなら何を言ってもいい」わけでもないことを学びます。いずれ、言ってもいい時がきたり言わなくても分かる時がくることもあります。世の中には、里親制度があります。子どもが成人するまで里親制度の団体から養育費を受け取って、幼い子供を預かり育てることが法律で認められています。様々な事情で、実の親がいない子どものため親代わりになってくれる人が責任を持って育ててくれます。責任を全うするのに、義務感だけでは出来ません。やはり、根底に子どもへの愛が必要でしょう。幼い内は、何も知らずに無邪気に親元で暮せますが、成長過程の中で「何か違う」と本人が気づくこともあるでしょう。里親にとっても、真相を話す時が近づくとドキドキするものでしょう。

私達はイエス様の戒めを知りつつも、イエス様に続いて「神の子」とされる特権が与えられています。それこそ、養子や養女のような神との関係です。それは、死ぬべき体、病気にもなる体を持ちつつも、死や病の原因でもある罪から救われる道を歩むことです。父なる神の権威と戒め、母なる神の愛の両方をバランスよく持ち合わせたイエス様から救いは起きるのです。旧約時代の律法を越えたイエス様の愛の戒めにも感謝して従っていきましょう。

コンテンツ

お知らせ