招きと選び

2018年05月27日
川崎 献一師
マルコによる福音書3:13~19

イエス様は登山が好きなのでしょうか?実は聖書では、山というのは神との交わりを深める場所なのです。そのイエス様についてきた人々は、求道者です。まだ洗礼は受けていません。イエス様ご自身は、洗礼を授けることはなさらず、弟子達が多くの人に洗礼を授けたと他の聖書箇所に書いてあります。ということは、その弟子達も本日のテキストで任命されるわけです。弟子達は誰から洗礼を受けたのかは聖書には記されていません。イエス様は、親戚の洗礼者ヨハネから洗礼を受けましたから、弟子達に洗礼を授けたのはヨハネかも知れません。

イエス様は、祈りの人です。父なる神と絶えず交わっておられました。その祈りの中で神に示された者たちこそ「これと思う人」ではないでしょうか?その12人というのは、イスラエルの12部族の完全数からきたものです。12という数字は10という数字より半端に感じる人もいるでしょう。しかし、よく考えると1年は12ヶ月、時計の数字も12まであります。1日は24時間ですが、その半分です。また1ダースは12本というのも偶然ではありません。これは欧米のキリスト教文化からの輸入と思われそうですが、不思議なことに日本で使われる干支の数も12です。ある学者は、日本の神道とユダヤ教から共通点を見つけ、歴史を紐解きつつ研究している人もいます。どちらにしても全てを支配されている神の摂理の中で、不思議な発見をすることは有り得ます。

12弟子の名前全てが書かれています。その中で最初に任命されたのはペトロです。元々はシモンという名前でしたが、同じ名前の人が他にもいる(熱心党)のとペトロという名には岩という意味があります。先週のペンテコステの出来事は、ペトロを始めとする弟子達が使徒としての具体的な働きを始めたことにあります。その結果、初代教会が次々と出来ていったのです。聖霊の働きを認めて唯一の神には3つの働きがあることがはっきりとしました。これを神学的に三位一体の神といいます。神は唯一なので御心は100%同じですが、働きが違うのです。父なる神は創造主、イエス様は十字架で贖いの御業を遂げられた救い主、そして聖霊は今も働かれる助け主と定義されています。それで教会暦ではペンテコステの翌週の礼拝は三位一体主日と呼びます。

教会も、そのように神の御心によって一致を目指します。主に招かれ、12弟子として選ばれ任命された弟子達も、各々の個性がぶつかり一致できない弱さはありました。その12人を指導なさったのがイエス様です。最後の19節には、致命的な裏切りを後にするユダのことも書かれています。一致どころか、イエス様を銀貨30枚で売り渡すようなユダですが、本日の箇所でイエス様に任命されていたのです。その任命に応えなかったどころか、大きな罪を犯してしまうのです。では、イエス様の指導力に問題があったのでしょうか?否、ユダの自由が認められて神の予定として旧約聖書の預言が実現するためにユダはイエス様を裏切る悪役として用いられました。勿論、本日の時点で、イエス様が「ユダは、私を裏切る」という任命に水を差すような失言はされません。神の領域は、神のみが御存知であればいいのです。しかし、人の領域としてはユダも神に招かれ、選ばれていたのに堕落相したので、私達にとっては反面教師です。

その弟子一人一人の個性がどうであれ、イエス様によって直接任命をされています。中にはヤコブとヨハネという兄弟で任命された者もいました。ボアネルゲスと呼ばれる程の癇癪持ちの人達、今では「キレ易い性格」だったのでしょう。聖書では、柔和で寛容な人がキリスト者らしいとされているので、この2人は任命の時は使徒としては相応しくなかったのでしょう。ということは、神は人の中味や過去を判断して任命されてはいません。人の資質などを超えて神がイエス様を通して任命されたのです。神には人を造り変える力があります。神の不思議さを広い意味で例えると、どんな人でも尊い神の作品です。でも、その作品の中から凶悪犯罪を犯す者もいます。これは創造主なる神が悪いのでしょうか?否、神に造られ自由意志まで与えられても、罪を犯すのは人間の責任です。

12弟子達は、使徒として約3年間はイエス様と共に歩みます。これは神に献身をしていても、独立していない状態です。イエス様の側で御言葉を聴いてイエス様の御業を学ぶ段階です。現代で言えば神学校や教会献身をして学んでいる牧師の卵の期間です。いずれ、この12人の中ではユダは亡くなり、代わってマッテヤが、その欠員を補います。12という完全数に当時の使徒たちは拘ったわけです。現代は、万人祭司の時代です。牧師に限らず、クリスチャン全体つまり教会が一致して、キリストの愛を伝道することを神が望んでおられることに変わりはありません。

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