再臨の恵み

2018年06月24日
川崎 献一師
マタイによる福音書25:1~13

多くの人々が実感していないでしょうが、今は世の終末時代です。その聖書の約束から約2000年が経っているため、キリスト教は信じられないのでしょうか?世の終末とは、いつキリストが急に世に来られても変ではないということです。まだ暫くは来られないかも知れませんし、いや今日キリストが来られるかも知れません。日時は予告なしです。大地震が急に起きることにも似ています。

人の死と本日のテーマは、神の領域です。そして、再臨信仰がなければ、その恵みは受けられません。ちなみに約2000年前のキリストの誕生を初臨とも呼びます。聖書には「天の国」とありますが、具体的には再臨の時です。イエス様が、再臨の鍵を握っておられます。例え話の中で、10人の乙女が出てきます。この10人とも、受洗して信仰はあった筈です。その根拠は灯(ともしび)を持っていたからです。灯すら持っていない人は、受洗していない未信者でしょう。受洗していても、賢い人と愚かな人が対比されています。それは灯の他に油を用意していたか否かです。この油こそ、聖霊ではないでしょうか?クリスチャンの祈りの中で「私達を聖霊の油で満たして下さい」という大胆な言葉を使って祈る人もいます。5節、花婿とはイエス様、花嫁とは教会です。遅れたという表現は、人が勝手に思うことです。遅れるも何も神の側では、イエス様の再臨の時期は定められています。只、人間的には約2000年前から再臨の預言があるのに「まだですか?」と思いやすいものです。

この四重の福音の再臨こそ、1942年の国家による弾圧の標的とされた信仰です。その前年、政府の命令で、この日本基督教団が創立されました。本日は、その記念日(77年)です。数多くあった教派が、当時の反民主主義な政策から強引に合わされたのです。それも神の摂理と受け止めることが信仰ですが、本来の神の御心ではありません。それは神の許容の下、神が悪の勢力を自由に泳がせておられるのです。神は、当時のクリスチャンの信仰を試されました。具体的には、現人神(あらひとがみ)として天皇を拝むか、聖書にあるキリストの父なる神を拝むか二者択一です。私達にとっては、キリストの再臨こそ、世を統治される神の時、救いの完成です。国家からの弾圧を恐れた人は、保身のため信仰を捨てました。その中で特に激しく迫害されたホーリネス系のクリスチャンは、信仰を貫いた人が多かったのです。そして、投獄された中には獄死した人もいます。殉教です。毎年6月26日が記念日です。その最も近い主日に、ホーリネス系の教会では弾圧記念礼拝を捧げます。

あまり再臨を強調しないキリスト教会も多くあります。しかし、教団信仰告白では再臨について触れています。健康な人が、自分の死に実感が持てないように、2000年以上再臨がない現実が続いたら、霊的な意味で眠気が射すでしょう。乙女10人ともに睡魔を受けて誘惑に負けました。愚かな乙女だけ眠り込んだわけではありません。  叫ぶ声を聴いて10人とも起きました。灯に例えられる信仰は皆が持っています。賢い乙女達は聖霊に満たされています。日頃から神と交わっている備えが出来ています。一方、愚かな乙女達は油が少ないつまり生温い信仰のため、油を賢い乙女達に求めました。乙女は人間ですから、神に求めるべきです。乙女が聖霊を分け与えること等できません。これは牧師や他のクリスチャンに聖霊を与えて下さいと言っているようなものです。的外れです。例えでは「店に行って自分の分を買ってきなさい」と賢い乙女達は勧めますが、もう遅いのです。ここで信仰とは神と自分の一対一の関係による極めて個人的な事柄だということを思い知らされます。再臨がない時には、わかりにくいものです。再臨=救いの完成の時には、神によって戸が閉められます。容赦ありません。それまでは寛容な神ですが、甘え過ぎてはいけません。11節は悲痛な叫びに聴こえます。そこで戸を開けて下さる神を私達は期待していませんか?神を侮ってはいけません。「今日も、明日も主の再臨はないだろう」と思いやすい私達への警告です。

日々の信仰生活で、聖霊を本気で祈り求めていれば油が入った灯があるので安全です。今は、試練が多くて喜べないという信者も多くいます。しかし、この再臨の恵みは「イエス様を信じて、本当に良かった」と100%心から感謝して言える時です。そんな日が必ず来ると信じて、聖霊で満たされる私達でありたいものです。この究極の恵みを知るためにも、教会へ行ってみましょう。

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