何からの救い?

2018年07月01日
川崎 献一師
ローマの信徒への手紙10:5~13

本日は栃木地区の交換講壇といって、宇都宮教会の木村太郎牧師が上町教会で説教されました。私は、宇都宮教会(所在地・桜4-1-36)で説教したので、そのメッセージを掲載しました。

キリスト教では、救いを語ります。一般の人々は、何からの救いと思われているでしょうか?各々大変な生活をしている人達も多くいます。人の苦難を大別すると、人間関係、経済問題、そして健康面(老化や心の病も含む)の3点ではないでしょうか?

教会に救いを求める人達も少数でしょうが、います。勿論、問題解決に繋がるに越したことはありませんが、ただ安らぎがほしくて教会に来てみたり、聖書を読んでも説教を聴いても、よくはわからない人が、教会の人と交わって心が和らぐこともあります。尤も、一番大事なことは聖書が示す罪からの救いですが、聖書の内容と世俗の価値観には、距離があります。この世でいう罪とは、法律違反や人としてどうか?という倫理、道徳観からが多いものです。それで、「あなたも罪人。その罪から救われましょう」とストレートに語っても、抵抗を覚えるでしょう。また、罪からの救いといっても、犯罪者が刑務所で更正教育を受けて人生をやり直すような意味にとられ易いでしょう。神の前での罪人という以前に、神を認めないという事実が更に罪深いわけです。多くの日本人が、御言葉を知らずに生きています。教会は、配慮を持って人々と交わるべきです。キリスト者も知識としては罪人と認めても、罪意識が弱いと罪から救われた実感も薄くなります。それで、真実の救いよりも、生活上の困難からの救いを祈り求めることになります。そして、本当の問題、あらゆる負の出来事の源にある神の前での罪を実感できるのは、神の導きによります。

私達は、新約時代に生かされています。旧約聖書の信仰から見たら、日本人は極東の果てに住む異邦人です。その律法を知らない外国人にも福音が与えられました。それは、律法を超えた世界です。律法を完全に守れる方が、律法を守れない罪人である私達の身代わりとなって神からの罰を受けるために十字架に掛けられました。その方とは、主イエス・キリストに他なりません。

誰が天国に行けて、誰が地獄に落ちるか」と好奇心から問う人がいても、聖書は禁じます。確かに天国も地獄もあります。もし、地獄という「真の意味で、とり返しがつかない」究極のマイナスが存在しないなら、本日のテーマ何からの救い?でしょう。地獄とは神の敵・サタンだけが落ちる場所ではありません。キリストを最期まで、信じない者は神に裁かれサタンと共に滅びます。しかし、誰がという特定の固有名詞を人に言う資格はありません。なぜなら、キリスト以外の人=全員罪人だからです。キリストは「人を裁くな」とも言われました。神でもない者が人は裁けません。神は救い主と同時に裁き主です。今は憐れみ深い愛の方ですが、世の終末には主権者として人を裁かれます。裁きがあるために、罪が赦されることを救いと呼ぶのです。

私は、両親の意志で1才の時に幼児洗礼を受けていましたが、覚えていません。そして、30才前に信仰告白をしてキリスト者となったのですが、今思えば適当な信徒でした。牧師の子として生まれたこともクリスチャンになったことも恥かくて人には言いませんでした。罪の赦しや魂の救いなど実感していません。「神を神としていない」肝心な罪に無頓着でした。それこそ、キリストが救い主というなら、あの十字架の出来事から自動的にみんな救われていると都合よく思いたい方でした。それは「キリストを信じなくても天国に行かせてくれる神」を望んでいたことになります。そして、未信者は、万人救済の恵みに気付いていないだけと考えるのです。しかし、人々が神の御言葉に応答して信じることこそ、聖書の教えです。この手紙の著者パウロは命がけで伝道しました。「主イエスが何のために苦しまれて十字架につけられたのか?聖書が語る救いとは何か?」を説き明かしながらです。最後の13節「主の名を求める(祈り)者は、だれでも救われる」ことは確かです。教会は、神の御心を知らない人々を招く聖所、礼拝とは罪の赦しの宣言に感謝して献げることです。

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