聖霊と悪霊

2018年07月08日
川崎 献一師
マルコによる福音書3:20~30日

私達は、聖書に基づいて聖霊(神の働き)を祈り求めますが、悪霊(あくれい)の存在があることも確かです。この世では悪霊と書いて「あくりょう」と読みます。「悪霊退散」と叫ぶ怪しい宗教もあります。本日の箇所は、イエス様が甚だしい誤解を受けているとも言えます。

5月以来の講解説教です。前回は12人の弟子をイエス様が任命なさった箇所で終わっています。それは山の上で行われました。その時も弟子達に「悪霊を追い出す権能」を授けておられます。悪霊の力で多くの病人が存在すると思われていて、イエス様1人では大変なので弟子達の協力が必要だったのでしょうか?確かに、イエス様たちが下山すると群衆が押しかけてきます。イエス様が帰られた家とは、弟子の代表シモン・ペトロの家でしょう。イエス様に対し御利益を求める人々が多過ぎで、ゆっくり食事も出来ません。この様子を身内の者はイエス様への悪い評判から取り押さえに来たとあります。イエス様は病を癒すという善行を施されていたのに、誰が悪い噂を流したのでしょうか?それも「気が変になっている」とは、その裏で妬みの悪感情が働いています。やはり人気沸騰のイエス様の存在を疎ましく思うのは、同じ宗教家、ここに出てくる律法学者などでしょう。律法学者が言うベルゼブルとはサタンのことです。

悪霊が人に幸せをもたらすことは有り得ません。一時的には悪霊の勝利と見えることもあるでしょう。例えば、覚醒剤によって「こんなに気持ちいい世界はない」と人を快楽へと高揚させる魔力があります。そして、覚醒剤を常用したくなる誘惑が伴います。でも、その先には薬物依存症による症状、廃人にさせるための正に悪霊の力ではないでしょうか?

神の視点から罪は大別すると2種類あります。死に至らない罪は、聖霊までは冒涜していないということです。人間的な罪の見方とは違います。例えば、人の悪口を言うことと殺人では罪の重さが違い過ぎます。極端な例ですが、殺人者でも罪を悔い改めてイエス様の十字架の愛を信じたら神には赦されます。地上では赦されずに死刑にされてもです。でも、例え殺人などは犯してなくても聖霊の存在を否定したり、悔い改めを促す働きの聖霊を拒むなら、それは死に至る罪です。それも単なる肉体の死というより永遠の命を受けられないことを指します。このような聖書の御言葉を私達は重く受け止めましょう。そして、最終的な罪を裁くのはこの世の裁判官ではありません。神・イエス・聖霊の三位一体の唯一の神が、誰にも相談なさらずに主権を持ってお決めになります。私達は「聖霊を冒涜するような罪は犯さなかっただろうか?」と思い煩うよりも、聖霊に満たされることを優先して祈りましょう。結果的に、悪霊は追い出されてしまうからです。聖霊と悪霊は共存できません。いや神が共存させません。

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