神の家族

2018年07月15日
川崎 献一師
マルコによる福音書3:31~35

教会に集まる人は神の家族とも呼ばれます。信仰とは個人的なものですが、1人での信仰生活には限界があります。それで、教会は霊的な家庭として、居場所を開放しています。どんな人も神の作品であり、神の御言葉に養われる必要があるからです。そして、独善的な信仰に陥らないため、お互いに祈り合い、励まし合う関係を目指していきます。家長はイエス様です。主の体なる教会とも言います。

本日のテキストには、イエス様の家族のことが出ています。イエス様は、家族に対して冷たい方でしょうか?イエス様が思われることこそ神の御心です。イエス様は多くの人の前で話をされています。イエス様は、神の子です。神の子が人々に話されているとは神との交わりつまり礼拝の場です。現代の教会なら、礼拝を妨害することがあってはなりません。当時のユダヤ教の礼拝でも、厳粛に聖書(トーラー)朗読がされ、祈りが捧げられる聖別された時間です。 その大事な時に人間的な伝言が入りました。誰かの命が危ないというような緊急性はありません。イエスの母とたち兄弟たち、つまり家族がイエス様を捜しているという話です。母とはマリアです。マリアの夫ヨセフは聖書に名前が出て来なくなったので、恐らく死別したと言われています。母マリアよりも、息子たちがイエス様を理解できていないのでしょう。マリアは若くしてイエス様を身籠り、出産しました。その後、産んだ子供はヨセフとの間の子です。イエス様ご自身には罪がありませんが、兄弟は罪人です。成人してから兄のイエスばかりに特別な力があって人気者ということを妬んでいたかも知れません。世間を騒がすのは良くないと思っているのか、または律法学者たちからも「兄弟のイエスに、身内からも注意せよ」と言われていたのか。しかし、イエス様が自宅にも戻らず、特別な働きをされていることは事実です

本日の箇所では、人気者イエス様の母上、兄弟姉妹なので「その話を中断して、家族とお会いになったらどうです?」と勧められているようです。そこでイエス様が「そうだな。家族に心配かけてはいけない。みんなへの話なら、いつでも出来るから家族と会ってくる」とは仰(おっしゃ)いません。むしろ「家族とは何か?」と問いかけておられます。

イエス様の母、兄弟つまりイエス様の家族とは、私を捜している人達ではなく、私の話を真剣に聞いている、この周りの人々だというのです。イエス様を捜している家族の心をイエス様は御存知です。先週の箇所から「あの男は気が変になっている」という悪い噂を気にして「もう、そんなことはやめて」という動機です。イエス様が、神の御心を伝えるために宣教をされ、神癒もなさってきた行為を素直に受け入れている人達こそ、神の家族です。

イエス様は、元々は天におられた神です。そのイエス様が人となられ、肉の家族の中に入られました。父ヨセフは育ての親ですが、マリアは実母です。それでも、神が敢えて人生を体験されました。神の子イエスという信仰は当時の人々にはありません。それでも、イエス様の言葉には神の権威があると信じられた人々は幸いです。イエス様の話を中断したり、否定せずに、受け入れることから信仰は始まります。

それで、本日のテーマ・神の家族に繋がります。勿論、「いや、神の家族と言われても困る。洗礼を受けるのも自由だし、縛らないでほしい」と思う人もいるでしょう。只、神の家族として呼ばれる場所は、現代ではキリスト教会を指しています。日本人には、教会よりも神社でしょうか?人のイメージや感覚は様々でしょうが、聖書では、神の御言葉としてイエス様の御父こそ真の唯一神と大胆に宣言しています。 また「神の御心を行う人」と言われても、抽象的に聞こえる人も多いでしょう。実は、イエス様の生き方は全て「神の御心」であると単純に信じる人こそ「神の御心を行っている神の家族」なのです。そして、教会に行っていない方々も神の家族として加えられるようにと祈りつつ、伝道していきます。

コンテンツ

お知らせ