公の光

2018年08月05日
川崎 献一師
マルコによる福音書4:21~25

クリスチャンの光の強さは「灯」に値するのでしょうか?この世の一番、強い光はやはり太陽でしょう。直接、見たら眩しすぎて危険です。静かな月光とは差があります。これは神の直接なる作品です。現代は、夜でも人々が生活できるように様々な人工的な光があります。野球もナイターが行われるのは煌々とライトがついているからです。また、24時間営業の店の存在も珍しくありません。最初の神の作品が光です。「光あれ」という御言葉一つで光が造られました。と同時に神は光の方です。神ご自身に光の性質があるからこそ、最初の被造物が光なのでしょう。人が神を信じられないのは何故か?人の側に闇があるからです。言い換えれば罪です。罪があると後ろめたくて神に向き合えません。神の光、清さを避けたくなります。人は、太陽の眩しさを避けようとしますが、太陽がなければ困るという矛盾があります。太陽がなければ、また雨が全く降らなくても生活に支障をきたすことを知っています。

実は、神によって生かされていることをクリスチャンは知っています。でも、洗礼を受けてクリスチャンになった事実を、あまり人には言わないという心理は何故でしょう?それは、目には見えない神よりも、目に見える人の思いが気になるからです。勿論、教会の中では言いやすいでしょう。それは同じ価値観同士で理解し合っているからです。だからこそ、伝道礼拝で月に一度、証しの御用をされる信徒は堂々とされています。聴衆から「アーメン」と同意する姿勢を感じることもあります。問題は、教会の外で本日のテーマを実行しているかが問われます。例え、灯のような弱い光でも外部の人々に福音を証しせよということです。灯を升の下や寝台の下に置いたのでは意味がないということです。燭台とは、蝋燭を立てて火を灯す台のことなので、今の子ども達にも分かりやすく伝えるなら、勉強机の上に電気スタンドは置くものです、それを机の下、足元に置いて電気をつけて「暗くて教科書の字が見えない」という人はいないでしょう。大人に「何をふざけているの!電気スタンドは、机の上に置きなさい」と注意されます。

私達にも公に出来ないこと、その必要もないと思うこともあります。でも、露わにされると聖書は告げます。現代の日本での宣教は、世間に対して影響力がないように思われます。もっと教会やクリスチャンが地の塩・世の光になるように祈るべきでしょうか?地上では、どうであれ必ず神の時がきて、イエス様こそ真理であることが、はっきりする時が来ます。世間には多くの宗教があり、経済的にも潤っていて、建物も立派な宗教もあります。彼等も、自分達の教えを真理として布教しているつもりでしょう。只、例えどんなに熱心に伝えていても、その内容が問われます。

一番大事なことは純粋な聖書信仰でしょう。信仰も賜物です。自力で勝ち取るものではありません。祈り求めれば必ず与えられるものです。「信仰から信仰へ」という言葉の意味は、信仰を持っている人が更に清い信仰を与えられることの保証です。信仰を持っていない人は、信仰以外に大事にしている物まで神によって取り上げられると予告されています。「キリスト教信仰がなくても私には財産があるから、充分に幸せだ」と豪語する人も最期に神の前に立たされた時、はっきりします。公の光に照らされ、地上では楽しく豊かに暮らしていても、信仰がないため滅びの宣告を受けます。更に地上の財産に永遠性はありません。

<古代ギリシャの有名な英雄アレクサンダー大王は、次々と国を侵略し、その名声を全世界に轟かせました。しかし、彼も真理の前では無力な存在です。自分の遺体を入れる棺桶の両側に穴を開けさせる遺言をしました。どんなに権力や財産があって、長生きできても死後の世界には何も持っていけないことを現わしたかったようです。私達クリスチャンにとっては、信仰こそ永遠の富です。それを公に表すためにも礼拝に出て御言葉からイエス様の光を反射させましょう。罪の現実は、どんなに隠したつもりでも神が露わにされます。日々の悔い改めも信仰の備えです。イエス様の十字架の愛と光を信じて歩みましょう。/p>

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