イエスの譬え

2018年08月12日
川崎 献一師
マルコによる福音書4:26~34

本日の最初の例えは、神の国はどう成長、発展をするかです。神の国というからには「最上の物」という大前提があります。人は国というと1つの国家を連想するでしょう。海外を旅して「ここに神の国」があったという国土のような目に見える物質的なものではありません。それをイエス様は成長する種という目に見える物で話されました。確かに、人が種を蒔き、日光が当たり、雨が降れば種は実を結ぶために成長します。もし、種に命がなかったら、種を蒔いても変化はなく、種蒔きの意味がありません。種が芽を出して成長するからこそ、人は喜ぶのです。人間の赤ちゃんでも、3才位が一番可愛いので、そのまま成長が止まってほしいとは思わないでしょう。勿論、子どもが思春期に入り反抗的な態度になると大変なので、小さい頃は可愛くて良かったとは思うでしょうが。でも、更に成長して大人になっていくことが親から見たら頼もしい筈です。

そのように成長する種は、植物に限らず全ての生き物に言えます。なぜ、成長するのか人は知り得ません。現代科学では、ある程度は解明していますが、実際に成長させておられるのは神の働きです。ここに神の支配を人は認めるべきなのです。

もう一つの譬えも種で現わしています。もっとも小さなからし種とは、こんな種に命があるのか?と最初は思われる種です。私達クリスチャンにとっては、教会に通っていた人が洗礼を受けることは大きな喜びです。しかし、世間では「洗礼を受けた」という喜びが通じません。クリスチャンホームでは祝会となっても、そうではない家庭では特に何もしません。でも、洗礼を受けた人が毎日、喜んでいたら証にはなります。聖書を読んだり、祈ることが慕わしく、自分が罪赦されていることから、人にも寛容になります。以前の自分だったら赦せなかった問題をも前向きに試練としてとれる信仰です。信仰は見えないものですが、見える態度の変化は個人の魂が清められることに繋がります。更に、そのような人が集まり、教会として成長すると、32節の例えも分かりやすく実感できるでしょう。

神は全てを御存知です。一方、人が知っていることは、どんなに博識豊かなで情報通な人でも神に比べればほんの一部です。またイエス様も全て御存知ですが、弟子たちは一部を知っているに過ぎません。でも、弟子たちには神の子・イエス様に任命された強味があります。例えの説明も特別にイエス様に教えてもらっている特権に与っています。この12弟子のことを現代では、牧師や伝道者のことと狭い意味で解釈する人もいますが、宗教改革の時代からプロテスタントは万人祭司という考えがあります。つまり、信者は聖書を所有していつでも読める時代です。今ではカトリック教会もそうです。昔は、聖書は聖職者のみが読み、信徒は読めずに聖職者の話から御言葉を聞いた時代もあったのです。私たちが使っている新共同訳聖書は、カトリックとプロテスタントの垣根を超えた和解の証しの書でもあります。信徒にもイエス様の譬えは、聖書を通して既に説明されているのです。まだ、その説明を聞いていないのが世の多くの人々です。そこで、先ほどの初代教会のような伝道に目覚める信徒たちの働きも貴重な神の器と成りうるのです。

当時は12弟子のみが密かに教えられていたことが、今や聖書を通して公にされています。物事には順番があり、歴史と共に神がなさる御業も変わっていきます。誤解がないように、神の愛と目的は変わりありません。今年度の標語聖句の通りです。只、時代によって神は手段を変えて導かれることはあります。私達は、目には見えませんが神の国と神の義(正しさ)を求め続けて歩みましょう。

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