全幅の信頼

2018年08月19日
川崎 献一師
マルコによる福音書4:35~41

イエス様の弟子たちは、今までイエス様に信頼して従ってきました。イエス様は群衆の前で話をされてきて疲れておられました。神の子とはいえ、人間イエスの弱さがあります。野外活動が多く、会堂の中で話をされる時も現代のようなマイクなどはありません。大声で話されたことでしょう。交通手段も徒歩が多く、多くの病人を癒される時、ご自身の体からエネルギーが出ていました。イエス様の働きは勿論、霊的なことであると同時に肉体労働でもありました。今回のように「向こう岸に渡る」時は、舟を使いました。弟子たちも行動を共にします。

この後、天気の雲行きが怪しくなりました。本日のテーマは、順調な時にはわかりにくいものです。弟子たちが「誰を信頼しているか?」と問われたら、「勿論、主です」と即答できるでしょう。私達クリスチャンも「神様」と言えます。問題は、いざという時にどうかです。37節、場面の展開です。当時は今のような気象情報はありません。ここ近年の異常気象に私達人類は振り回されています。地球温暖化は歯止めが効きません。この自然界を支配されているのは神です。舟が波を被り、水浸しになってもイエス様は舟の後ろの方で熟睡されていました。実にイエス様は、本日のテーマを実践されていました。イエス様は御自分を弟子たちが守ってくれるとは思っておられません。イエス様が信頼なさっているのは御父なる神です。でも、弟子たちにはそんな信仰がありません。元々、ユダヤ教徒であった弟子たちにとって神とは何だったのか?ユダヤ人に生まれたのは、自分の意志ではありません。物心ついたらユダヤ教を信じていることになっていただけなのでしょうか?形式宗教では、実生活の中で力が発揮されません。神の権威も感じられないのです。

弟子たちは、イエス様の熟睡状態を見て呆れたかも知れません。「嵐の時に、よく眠っていられるな。この非常事態に目を覚ますのが普通ではないか」と。しかし「いや、主はお疲れだから寝かせておいた方がいい」と思うような弟子はいなかったのでしょうか?確かに命の危険が迫っている時に悠長なことは言ってられません。今までイエス様がなさった奇跡は、主に病気の癒しでした。イエス様は、病気の癒しの専門職という枠にはめてもいけません。嵐を静めるような奇跡の力は持ち合わせてはいないと弟子たちは思っていたのでしょうか?それでは、全知全能の神の子という見方ではありません。弟子たちもそうでしたが、多くの読者が奇跡自体に驚くでしょう。しかし、テーマは神に対しての姿勢です。中途半端な信仰ではいけません。言い換えれば神は、徹底的に忠実な信仰を望まれています。全幅と言えば、100%を意味しています。

奇跡信仰に囚われると、神の御心から外れます。私達は、イエス様の似姿を目指す時、奇跡が出来るようなクリスチャンではありません。それは、イエス様のように例え、嵐が吹いても大丈夫な平安の心を持つ姿勢を祈り求めます。嵐というのは、台風のような異常気象のみならず、生活の中に於ける困難なこと全てを指します。イエス様を通して父なる神の支配を信じることにより、神は私の人生を最善に導かれるという御言葉への全幅の信頼です。

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