神癒と信仰

2018年09月02日
川崎 献一師
マルコによる福音書17:21~34

聖書に出てくる会堂長とは、ユダヤ教のシナゴーグの管理人です。イエス様の噂を聞いて、神癒を頼みに来ました。自分の娘が危篤状態というのです。親より先に子どもが死ぬなんて順番が逆だろうと思ってみても、理不尽な現実もあります。でも、このヤイロには幸いなことにイエス様への信頼がありました。イエス様が手当するだけで助かることに期待を持っています。前向きな姿勢です。

世の中には救急搬送されて特に夜中の場合、診察を断る病院もあります。医療スタッフの人材不足や患者の症状から判断して「手に負えない」場合の選択です。でも、イエス様はどんな患者であっても応じられる方です。そして、本日のテキストでは、多忙なるイエス様を学びます。イエス様はヤイロと共に娘の癒しのために出かけられたのに、別の病気で苦しむ女が登場します。「一難去ってまた一難」ではなく、まだ問題が解決していないのに、別の問題と関わるか否かの場面です。

12年間も出血が止まらない本人は大変です。彼女は、イエス様に声は掛けませんでした。公に出来ず、自分の症状を人知れず悩んでいたことでしょう。藁をも縋る思いでイエス様の服に触れてみたら、即行で神癒がありました。常識では有り得ない話ですが、彼女にとっては素晴らしい結果です。イエス様には神からくる霊の力がありました。その力が出て行って女の体に入ったおかげで神癒がありました。イエス様の体というより、その体を包んでいる服に触れただけで充分、効果があったのです。

30節のイエス様の御言葉に弟子たちは呆れました。イエス様に触れるのは群衆、不特定多数の人です。物理的に服に触れてしまうのは仕方ない話です。勿論、弟子たちには、イエス様の体から力が出て行ったことは分かりません。これはイエス様と女にしか知り得ないことです。ここで、イエス様と特に交わらず、御利益に陰で感謝して健康体で歩んだ方が楽なので、そのまま去りたいと女は思ったかも知れません。でもイエス様が、その姿勢を許されませんでした。イエス様は、この女と向き合われたかったのです。ある人は「イエスは面倒臭い人」と言いました。「病気が治ったことに感謝しています」と思うだけではいけないんでしょうか?病が治ったらイエスに用はない考えなら、魂は病んだままです。神癒という恵み、それも風邪が癒された類の病ではありません。12年間も、その病に縛られていたことを思えば「面倒な人」という言葉は非常に罪深いものです。

礼拝とは、神との交わりの時です。勿論、神と私達は対等な関係ではありません。礼拝とは、神と向き合いつつも神にひれ伏す時です。このイエス様が自分を捜しておられる姿勢、神の力が自分に及んだ事実を隠すことは出来ないと知った時、女は恐ろしくなったのではないでしょうか?女は正直にイエス様に告白しました。12年間も病で苦しみ、特に当時の社会では汚れた女と差別される病でした。多くの人が注目する中での勇気ある告白です。イエス様は女の信仰姿勢を褒めておられます。女が何事もなく、その場を立ち去ろうとしたことまでイエス様に見抜かれていました。その罪まで悔い改めたら本物の信仰の始まりです。

出血と言えば、イエス様も十字架上で血を流されました。血というのは命を指します。出血多量で人は死ぬこともあります。血は体の中を循環することによって命を保ちます。イエス様の十字架の時も神によって定められていますが、この女の問題が解決された後、ヤイロの娘の所にもイエス様は行かれるわけです。それは来週の説教になりますが、本日は神癒と信仰を学びました。23節のヤイロ、28節の出血の女、病を癒されるのは他の誰でもない、神御自身です。そして、私達は体の病以上に魂の病である罪の問題を解決なさったイエス様の十字架の愛に確信を持ちます。イエス様に出会うために教会へ行ってみましょう。

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