ただ信ぜよ

2018年09月09日
川崎 献一師
マルコによる福音書5:35~43

本日のテキストは、先週の続きです。イエス様は、12年間も出血が止まらない女を癒された後も話をされていました。イエス様は、他にも大事な用事がありました。ヤイロという会堂長の娘の所へ行かれるためです。早く行かなければ、その娘が死んでしまうことで気が気ではなかったでしょうか?普通の医者ならそうかも知れませんが、イエス様は父なる神に全てを委ねられていたので、落ち着いておられました。その時、訃報です。その娘が亡くなったというのです。イエス様は、その場に行かれる必要がなくなりました。死んだら終わり、死には誰も勝てない。多くの人が絶望的になって当然です。

イエス様は、驚かれません。訃報を伝えたのは父親のヤイロではなく、使いの人たちです。さすがにヤイロはショックだったでしょうか?娘が瀕死でも、イエス様が来られて手当をして下されば治っていたと信じていました。でも、死んでしまったら、面目丸つぶれでしょう。もし、イエス様が「死んだのなら仕方ない。もう私には用はない」と逃げるようにその場を立ち去ったら、どうでしょうか?イエス様の下に集まる人々の数は減るし、弟子たちもイエス様に失望するでしょう。勿論、そんなことは有り得ませんでした。イエス様はヤイロに励ましの言葉をかけました。それが本日のテーマです。敢えて文語調にしたのは、説教の後に歌う聖歌424が「ただ、信ぜよ」という曲だからです。現代風に表現するなら「ただ、信じなさい」となります。

これまでのイエス様の働きは、病気を癒すことでしたが、死んでしまった人に対しては何も出来ないと思うことが常識です。イエス様は、この場に及んでも娘の死を受け入れないのでしょうか?多くの人が、人の死を受け入れたくない、その事実を信じたくないと言います。でも、現実は受け入れざるを得ません。ただ、信じるとは、どういうことでしょうか?「神は信じる者に対して最善にされる」これが信仰です。漠然と信じているわけではありません。

聖書では死を眠りと表現することがあります。眠るとは、起きている時には出来ることが一時的に機能停止になることです。そして、今は眠った状態でも必ず起きる時があることを前提にしています。勿論、私達の日常の眠りとは違います。毎日の眠りは簡単に目を覚ますこともあります。寝息がしたり、時には鼾(いびき)をかいたり、寝言や歯ぎしり、寝返りも打つでしょう。明らかに死んではいないと言えます。「この人は死んだ」と診断されるのは、医学的には心肺停止と脳死です。でも、神の視点では医学の常識を遥かに超えて、人の死は眠りなのです。世の終わりには眠りから起こされ、各々が神の裁きの座の前に立たされます。

イエス様は、人々を外に追い出されました。子どもの両親と3人の弟子、そしてイエス様で6人、更に子どもを入れると7人が同じ部屋にいます。これは聖書の完全数です。密室の中で、死んだように眠っている少女にイエス様はアラム語で「タリタ、クム」という御言葉です。この後、奇跡が起きました。イエス様は、どんな病気をも治せる方のみならず、死者を生き返らせることも出来ました。この聖書箇所を嘲笑いながら読む人もいるでしょうか?もし、いても「イエスが言っていた通り、最初から少女は死んではいなかったんだ。やはり、眠っていたのか。それなら起き上がるだろう」と納得するのでしょうか?少なくとも、クリスチャンはただ、信じて読むべきでしょう。当時の人でも、少女の心臓の鼓動が聴こえなかったり、息をしていないことは確かめられた筈です。更に何度も少女に対して大きな声で起こそうとしたり、体を揺らしても、また水を掛けても起きなかったら、死んだと判断できます。それを知っている人は、やはり驚きます。我を忘れるとは、手品やサプライズで驚くレベルとは違います。言葉にならない絶句でしょう。

イエス様は、この人々の驚きを奇跡信仰に繋がると察知されました。それは奇跡を行う、それも死者をも生き返らせる方だから信じる価値はあるという、極めてご利益的な信仰で終わることをイエス様は喜ばれません。それで、イエス様は箝口令を出されたのです。それでも、この出来事を伝えずにはいられないのが人間の現実です。イエス様の命令に従わず、噂はどんどん広がります。私達が伝道で強調したいのは、イエス様の献身愛です。奇跡も伴いますが、私の罪の為に十字架で死なれた犠牲の愛を語り、全知全能の神には不可能はないと只、信じて歩みましょう。

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