120歳のモーセ

2018年09月16日
川崎 献一師
申命記34章

本日は、敬老感謝礼拝です。毎週の講解説教はお休みにします。日本は高齢化社会と呼ばれて久しいものがあります。上町教会では2年前から敬老対象者を75歳以上としました。それまでは70歳以上でしたが、今後は80歳以上、更には85歳以上とされる時代がくるかも知れません。75歳は創世記のアブラハムが神から召命を受けた年です。そして、80歳はモーセが召命を受けました。

モーセは80~120歳の40年間、全てを神に献げて歩みます。その働きは、順風万(まん)帆(ぱん)ではありません。苦難の連続です。人間的には、何を好んで神に従うのかという話です。日本では「若い頃の苦労は買ってでもせよ」と言いますが、モーセは全然若くありません。ミディアンという外国で、家族にも恵まれて羊飼いでいればよかったのです。隠退でもすれば、自分は働かずに若い羊飼いを使いながら悠々自適な暮らしも出来ました。そして、エジプトで苦しむ奴隷のことを聞いても、自分には無関係と割り切って放っておくことも出来た筈です。でも、自己中心的な思いが砕かれることが神体験なのです。神とモーセの一対一の関係です。第三者はいません。信仰とは客観的には孤独に見えます。でも、正確には目には見えなくとも神が共におられるので孤独ではありません。神は、モーセの最期も山に導かれました。本来なら「もう、年なので山頂まで登るのは無理です。勘弁して下さい」と言いたいモーセでしょうか?いや、モーセには神によって健康が与えられていました。4節は、神が先祖に約束された土地全体です。この広大な土地、つまり聖地を見せるために神はモーセを連れて行かれたのです。只、モーセは、そこには入れないのです。残念な話でしょうか?

これは、天国の近くまで行ったのに天国には入れなかったことに似ているでしょうか? 私達も、この世で成し遂げたいことがあったり、やり残したことを中途半端に終わらせたくないものです。でも、信仰とは神に委ねることです。そして、新約時代はイエス様による永遠の命こそ究極の天国です。カナンの土地は神の地上における約束です。エデンの園ではありません。モーセの死後、ヨシュアが受け継いだ後も戦いや困難があります。モーセ自身は死んだことによって地上での働きを終え、永遠の憩いの場に入ったのです。

聖書では、高齢者の人々が神よって用いられる話がよくあります。その働きの故に敬老の心が与えられます。この世でも、敬老精神は尊ばれますが、それは人生の先輩たちの働きによって今の社会と自分達がとあるという考えが多いでしょう。それは否定しませんが、私達は更に、そうさせておられるのは神であるという信仰を持ちます。高齢になると心身共に衰え、若い頃より働きには制限があります。敬老というのは、その人の過去の功績を称えるためにあるのではありません。功績などは個人差があります。私達は、神の存在愛に気付くべきです。モーセは健康であるのに神によって命をとらたので老衰ではありません。12という聖書の完全数の10倍、120歳で人生の最期を迎える神の時が定められていたのです。モーセは主役のように見えるかも知れませんが、主役?は常に神です。モーセは神の御言葉に従って脇役に徹していたのです。神が見えない方なので、モーセが注目されますが、素晴らしき神の器として敬うことまでは許されます。そのモーセの使命が12節に記されています。

新約時代の今は、エジプトの奴隷ではなく、罪の奴隷となっていた私達を救われたイエス様の十字架を仰ぎます。イエス様は、モーセの三分の一も地上におられませんでした(33歳の人生)が、その働きはモーセとは比較できません。申命記がモーセを通しての神の働きなら、新約聖書いや実は旧新約聖書全体を通して神の偉大な働きと栄光が書かれているのです。それ故に聖書は神の御言葉であり、永遠のベストセラーです。敬老の方々も若者や子どもも神に感謝して共に主にあって一つを目指しつつ歩んでいくことが教会の姿です。

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