愛の掟

2018年10月28日
川崎 献一師
マルコによる福音書7:1~13

伝道する時に一番強調したいテーマは神の愛です。その神には掟があります。掟という表現が堅いならばルールという言葉を使ってもいいでしょう。神は、最初からルールが多い世界を造られたわけではありません。最初の人類アダムとエバには唯一の規則としてエデンの園の中央にある木の実だけは食べてはいけないと言われました。でも、人類は誘惑者である蛇の言葉に従い、唯一の規則を破りました。それが罪であり、その罪も多様化したため、多くの掟が必要になりました。その掟を律法と呼びます。神は掟で人類を縛り、人々を苦しめることを目的にはされていません。神が律法を与えられたのは、人類が正しく生かされるための手段なのです。本日の8節に「神の掟」とありますが、神=愛の方なので、テーマは「愛の掟」としました。

ファリサイ派や律法学者たちは、イエス様に対立しています。人気者のイエス様に対し妬みの感情があります。一番、気にいらない相手はイエス様ご自身ですが、イエス様の弟子たちにも注目しています。弟子たちの行動の中で欠点を見つけ、イエス様を批判することを目的としています。その欠点とは、昔の人の言い伝えを守っていないことです。具体的には食事の前に手を洗わない行為を咎めました。これは、客観的には単純にユダヤ人には潔癖症の人が多いと思われそうですが、もっと根が深い差別と偏見に満ちた思想があるのです。ユダヤ人は、神に選ばれた特別な民族という意識が強いのです。逆に異邦人はユダヤ人以外の民族なので、聖なる神から選ばれていない汚れた民族ということになります。そのユダヤ社会にも異邦人は住んでいます。日常生活の中で異邦人が触れていたものにユダヤ人も触れてしまうこともあります。それで、手が汚れている筈なので、手を洗います。他にも身を清めたり、食器や寝台(今で言うベッド)まで清めるべきという先入観があります。イエス様が産まれた場所は、家畜小屋です。ファリサイ派から見たら汚れた場所でしょう。ファリサイ派は羊飼い達をも軽蔑していました。羊飼いは、安息日にも働かざるを得ない人達で律法を守れない職業だからです。そんな羊飼い達にイエス様誕生の知らせが誰よりも先に天使から伝わったのですから。神は律法違反者の羊飼い達をも愛しておられました。ファリサイ派の考えは、神の視点からは的外れな面が多かったのです。勿論、食前に手を洗うこと自体は悪くありません。むしろ、衛生的にはすべきことでしょう。ばい菌が付いた手でおにぎりやパンを食べない方がいいでしょう。それは、常識としては必要なことですが、人間の戒めを絶対的な教えとしていることに問題があります。

 ファリサイ派という名称は、元々は分 離 という意味があります。徹底的に汚れたものを排除することにより、自 分自身の清さを保っているつもりなのです。律法学者の多くもファリサイ派です。イエス様は、言葉と心が一致していない「いわゆるブレている」信仰姿勢をファリサイ派から見抜いておられました。彼等は、神の律法よりも人が作った規則の方を重んじています。例えとして十戒の第5条の当たる「父母を敬え」の重要性、人類はアダムとエバの誕生こそ例外ですが、その子孫は全て父母を通してしか生まれて来られないように神が造られました。だからこそ「父母を敬え」と言われて、その掟を破る者は死刑に当たる程の重罪なのです。その知識があっても勝手にコルバンと称して父母に神への供え物をすれば、父母にすべきことは特にないとしています。これは父母に対し渡すものはお金を始め、神への捧げものとして父母を重んじているという屁理屈です。

現代人に例えるなら、年老いた親の面倒は、お金を払って老人ホームに任せよという考えにも通じます。勿論、老人施設への入所が悪いのではありません。各々の家庭には事情があるでしょう。12節の「何もしないで済む」という姿勢に問題があるのです。そこには愛がありません。これは礼拝にさえ出ていればとか、毎日、聖書を読んで祈っていれば等、形式的で安易な信仰生活への誘惑があるわけです。ファリサイ派にとっては律法さえ守っていればという考えから、更に彼等の都合が優先され、律法よりも言い伝えの方が上という本末転倒の姿勢です。イエス様は、今回は一つの例を出されてファリサイ派を非難されましたが、それも氷山の一角に過ぎない実態を御存知でした。

伝統にもいい面は多くあるでしょうが、逆に悪い伝統は変えられるべきです。今、上町教会の祈祷会では出エジプト記を学んでいますが、エジプトの中でイスラエルの民が何と約400年間も、奴隷状態でした。当時のエジプトでは奴隷制度が当然のように伝統になっていましたが、明らかに人権蹂躙の罪なので、変えられるべきです。神が預言者モーセを用いられて出エジプトの御業を成さいました。ファリサイ派は、先祖に当たるモーセを尊敬しているのに、モーセが崇めていた神の御心からは外れていました。私達もファリサイ派を反面教師にして偽善者にならないように気をつけるべきでしょう。イエス様による愛の掟を守り、この愛が教会の働きを通して、何よりも聖霊の力によって正しく多くの人々に伝わっていきますように。日本全国いや世界各地の教会のために祈りましょう。

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