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感謝の祈り

2019年01月06日
川崎 献一師
マルコによる福音書8:1~10

教会よりも初詣のために神社に行く日本人の方が圧倒的に多いでしょう。人数が多いから真理だとは聖書は教えません。的外れに、存在しない神(偶像)に祈願に行く人達をも神は漏れなく造られました。日本人が聖書の神を中々、信じない現実に対し、神は日本人への伝道を苦手にしておられるのでしょうか?まさか、全知全能の神に苦手なものは有り得ません。只、日本人の神に対する頑なな姿勢をも自由意志として重んじて様子を見ておられるのでしょう。

本日のイエス様は、御自分に付いてきた人々が3日も経つのに断食状態だったのでしょう。「人はパンだけで生きる者ではない」ため、先にイエス様の御言葉を聴いていた人達ですが、地上に生かされている間は、肉の糧も必要です。それまでイエス様は、その事実に気付かれなかったのでしょうか?いや、また奇跡を起こして神の栄光を現わすためのことです。3という数字にも意味があります。神の時です。弟子たちも以前の言葉を繰り返すように「人里離れたところには、店もない」と言います。それでも、パンを持っている人もいました。その数が7つ、これも聖書の完全数です。6つとか8つではないのです。ここでイエス様は本日のテーマを実行されます。これは父なる神への先取りの信仰です。普通は、食べ物が与えられた現実を見たら、感謝するのではないでしょうか?イエス様は、パンが7つあると聞いて群衆を座らせ、祈られました。7人に分け与えるなら解りますが、群衆に足りるはずがない数字です。「たった、7つしかパンがないのか!無理だ。私は、ここから去る。群衆も疲れているから、私達を追っかけられない筈だ」とイエス様は言われません。

7つパンがあることを感謝なさるイエス様なのです。全知全能の神は、完全数である7つのパンを用いられ、群衆に必要なパンが配られていくことを神に期待されているのです。神がなさることは完全であるという姿勢です。  これは、勿論マジックではありません。現実に起きた奇跡の出来事です。現代のマジシャンも不思議な手品を見せますが、奇跡というより人の目を錯覚させるパフォーマンスでしょう。彼等は、神に祈ったりはしません。自分の才能による誤魔化しのテクニックで、人の目を翻弄させるのです。イエス様は、絶えず御自分ではなく、父なる神の栄光を現わすことに心掛けておられます。祈られたイエス様の周りでは、今度は弟子たちが用いられます。ここでの弟子たちの奉仕は、増えたパンを群衆に配ることです。

更にパンだけではなく、おかずとして魚も増やすためにイエス様は「賛美の祈り」を神に対して続いてされました。その祈りの内容まで聖書には記されていませんが「父なる神よ、あなたは、この小さな魚をも増やすことが、お出来になります。どうか、パンに続いて魚をも、この飢えている人々にお与えください」と祈られたのかも知れません。 そして、この奇跡は群衆にギリギリ足りたという訳ではありません。前回は12の籠に残り、11でも13でもなかった完全数です。イエス様の弟子たちも12人が選ばれていました。今回は、前回よりは小規模ということで7籠、これも完全数です。6や8ではないことから、神の御業は完全であることを示しています。

2019年、人間的には納得いかないことも起こるうるでしょう。私たちが神に感謝の祈りを捧げる根拠はどこにあるのでしょうか?食事や健康が与えられることも、そうですが、それだけでは御利益信仰になります。この世の人々が解らないことを私達は知らされています。私達には神の前で罪はあるという事実です。その罪がイエス様の十字架の愛への信仰によってのみ、赦されているのです。毎週、捧げられる主日礼拝は、イエス様による「罪の赦しの宣言」に感謝する時です。感謝が伴わない礼拝も人によってはあります。私も経験しています。礼拝に義務的に出席する姿勢は、その人の信仰が十字架から逸れていることを物語っています。  本日のテキストの群衆や また弟子たちも、まだイエス様が十字架に掛けられる前の出来事です。やがて、イエス様は十字架に附けられます。私たちは、その出来事を思って日々、感謝を献げるべきです。現実が上手くいっていないから、感謝できないでは洗礼を受けた意味を忘れています。その洗礼を受けたからこそ、聖餐式の恵みにも与れることを今一度、感謝しましょう。

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