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神のパン種

2019年01月13日
川崎 献一師
マルコによる福音書8:11~21

聖書当時の人々は、信じる前に「しるし」を求めました。言い換えれば奇跡です。実は先週の箇所では、神の奇跡を学びました。それは本日の20節にもイエス様が触れられています。奇跡は、解りやすい神の御業でしょう。ファリサイ派は「奇跡を見せてくれたら信じてやろう」という傲慢な姿勢です。イエス様は、必要に応じて奇跡をなさいましたが、奇跡信仰の限界を悟らせようとも思われています。奇跡とは、目立つもので人々を魅了します。当時の人々のみならず、現代人も奇跡には憧れますから、求めている人々は多いでしょう。

先週は、女子レスリングの吉田沙保里選手が現役を引退するニュースが世間では驚かれました。特に来年に控えている東京五輪を前にして勿体ないという声もあります。しかし、引退を決めるのは本人です。約半世紀ぶりの日本でのオリンピック開催は、華やかな舞台です。現代でも、スポーツ界や政治でも芸能界でも、世間が注目することは人々の関心をそそります。イエス様は、その傾向を嘆かれる方なのです。それは、神の御心からは逸れた「この世的な」事柄だからです。ファリサイ派は、ユダヤ教の指導者なので、自分達を聖者と思っていても、イエス様から見たら「NO」です。神の御心が解らないのなら、霊性もありません。イエス様は、ファリサイ派の的外れな求めには応じられず船に乗って、そこを去られました。

本日のテーマ、日本人に解り易い表現にするなら「パン種」とは「飯の種」です。「飯の種」とは「その人が拠り所」としていることです。聖書では、御言葉を種にも例えています。伝道とは「福音の種蒔き」です。この種が発芽して大きく実り、社会にも影響を及ぼすことにもなります。イエス様は、正しい教えを御言葉として弟子たちを始め、群衆にも宣教されました。それまでのユダヤ社会には、2つの影響力があるパン種があったのです。この2つは対照的ですが、いずれも的外れ(罪)でず。

まず、ファリサイ派のパン種は一言で言えば「偽善」でしょう。ユダヤ教の指導者として、いかにも神の前で敬虔な聖職者として儀式を重んじます。律法を守ることは結構ですが、律法を都合よく解釈したり、神の律法よりも人が作った伝統を優先します。また、徹底した差別主義者でもありました。非常に窮屈で、偏見が強い宗教観は、社会の人々の負担にもなっていました。  一方、ヘロデのパン種は、分かりやすい悪です。ユダヤ教を馬鹿にしている面もあります。無律法で、快楽的で低俗です。ユダヤはローマ帝国の植民地なので、その環境の中で領主として小賢しく世的な権力を振りかざします。あの洗礼者ヨハネに律法違反と非難されたヘロデはヨハネを逮捕し最終的には死刑にしました。自分の都合によっては人命をも奪う残酷な政治家でした。ローマの傘下とはいえ独裁者です。社会への悪影響は計り知れません。

この2つは相容れないものですが、どちらの教えも気をつけるべきとイエス様は、言われています。しかし、弟子たちも的外れの反応です。無学な弟子たちにとって、パン種といえばそのままストレートに食べるパンを連想しています。先週のテキストでイエス様が4000人の群衆にパンを分け与えた後、7籠もパンが残っていたのに、船に持ってくるのを忘れたようです。「たった一つのパンでは仕方ない。主が言われているパン種とは、このことだ。忘れてきたことを反省しよう」と議論しているのでしょうか?

イエス様は、弟子たちの心の鈍さに情けなく思われます。例え、パンが一つしかなくても、今までに2回も神の奇跡を見てきた弟子たちは、何を学んでいたのでしょうか?必要なものは神が備えておられるどころか、パンを増やして有り余ることまでされています。  神の御言葉がパン種になるには、清い霊性が必要です。それは、聖霊の働きによって与えられます。福音書の弟子たちは無学なままです。霊性に欠けているのは、まだ聖霊が弟子たちに降っていないからです。しかし、使徒言行録ではペンテコステの出来事から聖霊に満たされた弟子たちに変えられています。それこそ、神の御言葉がパン種になったのです。更に、その種を自分の魂の救いだけには留めず、福音の種蒔き、つまり伝道をします。そして、神のパン種は聖霊の風に乗って運ばれ、やがで世界の多くの人々の魂に届きます。具体的には、洗礼を受けてクリスチャンになっていく人々が増えていき、教会も霊的な意味で活性化することに繋がります。クリスチャンは、神のパン種によって霊的に養われることを目指します。

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