何か見えるか?

2019年01月20日
川崎 献一師
マルコによる福音書8:22~26

本日、イエス様によって癒された盲人には、周りの人々の助けがありました。盲人なので、1人でイエス様の元には行けないからです。イエス様は、どんな病気でも癒される方という噂は広がっていました。それも病人に触れるだけで奇跡が起きるという噂です。盲人も、彼を連れてきた人々もイエス様を素直に求めて来ました。無神論者のように、疑い深い面はありません。それは噂通り、周りにも体験した人々が多くいたかも知れません。イエス様には医療費を払う必要もなく「触れて頂けるだけで」という信仰です。只、今回の癒しは瞬時ではありません。まず、人々から盲人を離しました。そして、村の外へ連れ出すという行為に盲人は従います。盲人の目に清い方の唾をつけます。両手を彼の頭でしょうか?置いたあとに問いかけます。本日のテーマです。すると徐々に視界が開けてきたようです。人が木のように見えたようです。更に歩いていると言いますから、通りがかりの人が見えたのでしょうか?その答えを聴いて、イエス様は再度、同じことをされました。これで普通の人の同じような視力になったという奇跡が起きました。もう、盲人ではありません。イエス様によって新しくされたのです。この体験は喜びです。村の人々にも伝えたいところをイエス様は戒められました。今までの講解説教でも学んだように、その癒しの体験が「御利益信仰で終わってほしくない」ためです。この人は、元々は村の人ではなかったようで、村の外にある実家に帰らせました。

この盲人だった人は、イエス様を肉眼で見ることも許されました。現代の私達には、イエス様は見えません。天に昇られたからです。姿なきイエス様は、今も聖霊として生きておられると信じていくのです。見えない空気や心が存在することは認めても見えない神を認めないとは、どういうことでしょうか?それこそ、罪の力です。肉体的に目が見えないことは、不便なことでしょう。周りの人々の協力も要します。逆に見えるようになったら、何と快適なことでしょう。しかし、霊の目が開かれないことは生活上の不便さはなくても、本質的な意味では不幸なのです。

見えない神は、永遠に存続する方です。その霊なる神が、見えるものを次々と造られたのです。イエス様も神の作品のように思われますが、違います。聖書では神の分身という言い方はしていませんが、神の子です。私達も聖霊の力でイエス様を信じて神の子とされました。神の子には、2つの意味で目を持っています。1つは肉体的な目です。地上で生かされている間は、よく見えるほうがいいでしょう。もう一つは、霊の目、つまり信仰の視点です。イエス様に「何か見えるか」と聞かれて、私達は「本当の希望が見える」と答えてもいいでしょう。イエス様の到来の意味と同時に自分の罪深さがよく解ることが出来た人は幸いです。肉体や心の病が癒された人は魂の癒し、つまりイエス様の十字架の愛による救いを知って新しくされるように祈っていきます。

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