イエスの弟子たち

2019年02月17日
川崎 献一師
マルコによる福音書9:30~37

弟子という言葉を辞書で調べると「特定の師匠について、学問や技芸などの教えを受ける人」とあります。弟子という表現は古さを感じますが、今でも大相撲や芸人の世界などでは使われています。スポーツ界では監督またはコーチと選手という言い方もしています。弟子達は、何故イエス様に従ってきたのか?それはイエス様の人格、様々な奇跡を行う力から「この方についていきたい」というカリスマ性があったからでしょう。

イエス様は、人々からの誤解を恐れてはおられませんが、誤解されないに越したことはありません。多くの人々が地上的な御利益を願っているので、イエス様は、人に気づかれたくなかったのです。人々のメシア(救い主)像はイエス様への誤解の上に作られた理想です。実は弟子達も他の人々と変わりません。イエス様が神から地上に遣わされた意味に無知でした。只、イエス様を通して弟子達は神によって先に選ばれたという点が、他の人々と違います。いずれ多くの人々が誤解を乗り越えて、クリスチャンになりますが、弟子達は先にイエス様に指名を受けた者として再度、受難&復活の話を聴きました。31節の「殺される」とは物騒な言葉ですが「復活する」とも言われています。怖がることはないのですが、それは聖霊を受けて信者になった立場になって言えることです。本日の弟子達は、まだ本物の信者ではないのです。それでも、イエス様の弟子として従っていることは不思議です。イエス様が、はっきりされた態度に対し、弟子達はイエス様に訊きたくても訊けないとは対照的です。本音は「もっと、わかるように説明して下さい」であっても、殺されるイエス様を話題には出来ません。これはイエス様に似ても似つかぬ姿勢です。クリスチャンはイエス様の似姿を目指すべきとも言われますが、弟子達にも、こんな臆病な時代があったのです。

33節からの弟子達は愚かな議論をしていたことをイエス様に見抜かれました。それは恥ずかしいことで「弟子達の中で誰が一番偉いか」という内容です。本当に偉い人は「自ら偉い」とは言いません。私達にとって「一番偉い人」はイエス様です。でも、イエス様は、その事実を誇ったりはなさいません。35節の御言葉は「自分を偉いと思うな」ではありません。イエス様は、偉くなりたい人の気持ちを御存知です。それを「一番、先になりたい者」と表現されています。言い換えれば偉くなりたいなら謙虚になれです。それはイエス様ご自身の生き様から伝えておられます。イエス様は、弟子達を連れて神の国のために働かれましたが、人々に報酬を求めていません。でも、生活できたのは天の神が人間イエスと弟子達の必要を備えておられたからです。イエス様は、先立っていかれる方と同時に、全ての人の後を歩む方です。シンガリになって弟子達を守ってくださる方なのです。人に仕えるイエス様は十字架に掛かる前に弟子の足を洗うという奴隷の仕事をされました。そして、奴隷どころか最悪の罪人扱いを受ける十字架刑の死刑囚になるつもりです。なのに、弟子達は「この世的な」意味で偉い者は誰かと気にしていたのです。

36節、イエス様は1人の子どもを用いて例え話をされます。大人に比べて出来ないことが多い子どもは無力で、社会の役立たず、子どもを邪魔者扱いする人達もいます。そんな子どもであっても、神の尊い作品です。真ん中に立たせたのは「今日は、この子が主役だ」ということでしょう。抱き上げたというからには、まだ幼児です。イエス様からのスキンシップです。日本では、大相撲の横綱に抱っこされた子どもは、すくすく育つなどとも言われますが、救い主イエスに抱き上げられた子は何と幸せでしょうか?イエス様は当時、差別されていた人達をも愛しておられました。「わたしの名のために」とは「イエス様の御名前によって」という子ども向けの祈りの最後の言葉を連想します。 教会やキリスト教の子ども園などは、「イエス様の御名によって」創設されました。子どもは弱くて大人は強いという考えもありますが、神の前では「どんな人」でも弱くて無力な存在です。でも、イエス様を通して「どんな人」でも愛されています。「イエス様の御名のために」子どもを無条件に受け入れられる人は、幸いです。それはイエス様を受け入れていることです。更に「イエス様というよりも」このイエス様を遣わされた神の御心を受け入れていることが強調されています。

私達人間は、条件愛で動き易く家族や自分と気が合う人は、感情的に愛しやすい条件を満たしています。家族でも愛せない場合もあり、自分にとって可愛い子、そうでない子という感情を持つ人もいます。また人づき合いも利害関係が条件となり易く、よく会う人に対しては自分のために平和に過ごす打算もあります。 生活の知恵でしょうが、自分中心の見方は、無意識ながらも条件愛です。でも、どんな人でもイエス様は神の作品としての存在愛として見ておられます。全ての人の父が神だからです。その神が御自分の独り子としてイエス様を世に遣わされたのです。神とイエス様の御心は常に一致されています。神の意見とイエス様の意見の対立などは有り得ません。でも、罪人である私達は、神の御心から外れやすいのです。本日の前半は、正にイエス様の御言葉を受け入れるどころか、恐れている弟子達から学べます。イエス様のように神の前で謙虚になればなる程、実は神が高めてくださいます。事実、イエス様には受難がありましたが、それは人に仕えるためでした。そのイエス様を死者から復活させてくださったのは、神です。結果的にも世界中でイエス様は「神の子」として時代を越えて賛美されるべき方です。聖書は神の栄光が現れるための永遠のベストセラーです。

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