味方と誘惑

2019年02月24日
川崎 献一師
マルコによる福音書9:38~50

本日の新共同訳聖書の箇所には太字の小見出しが2つあります。そして、本日のテーマは前半と後半の小見出しを合体させました。すると、このテーマから「あなたの味方だから」と誘惑する詐欺師などを連想するでしょうか?前半は、弟子の一人ヨハネがイエス様の御名によって悪霊を追い出す業、つまり病の癒しをしている人を見ました。そして「あなたも私達の仲間だね。一緒に来なさい」と誘ったら、断られたようです。それでヨハネは「私達に従わない」と見て、その業をやめさせようとしました。でも、イエス様はヨハネに「余計なことをするな」と言わんばかりに「私達に逆らわない者」と容認されます。「従わないのに、逆らってはいない」とは矛盾にも聞こえます。これはイエス様と12弟子の関係のように、寝起きから共に行動をしている人ではなくても「イエス様の御名」によっての信頼関係です。

本日の前半は、非常に寛容なイエス様です。逆に弟子達、特にヨハネという名前が出ていますが、心の狭さを示されます。「イエス様の御名」によって、奇跡が行われること自体「イエス様の御名」による力に期待している証拠です。それは地上的な御利益信仰かも知れませんが、最初はそれでもいいとイエス様は許容されています。つまり、本物の信仰に導かれる可能性もあるからです。勿論、イエス様の悪口を言うなら逆らっています。只、当時は実際にイエス様の御名によって悪霊を追い出せたのです。そんな奇跡を目の当たりにして悪口が言えるでしょうか?少なくとも、すぐ後には言えません。暫くしてイエス様が誤解され裁判にかけられます。「イエスを十字架につけろ」と呪いの言葉を叫ぶ者は出てきます。しかし、イエス様の御業を認めている本日の時点ではイエス様の味方です。言い換えれば信仰者ではなくてもキリストの理解者でしょう。41節、本人はまだ弟子になっていなくても、キリストの弟子に協力する人には「必ず報いを受ける」とイエス様ご自身が保証されています。その報いとは魂の救いを意味しています。

後半は寛容なイエス様から一転、厳しい姿勢になっています。イエス様は、どんな人をも愛しておられますが、どんな罪に対しても厳しい方です。その姿勢をも学びます。イエス様の表現は強烈です。人体を例えにしています。誘惑に負けやすい部分を躓きの元としています。手や足を切り捨てるとか目を抉(えぐ)り出すなど「他に言い方はないのか」と言う人が出てきてもおかしくありません。

今は、特に言葉には気を付けるべき世間の風潮です。聖書の翻訳も時代に合わせて変えられてきました。時代の空気を読むということも大事な側面でしょう。政治家等の有名人の失言が批判されています。しかし、私達は時代に従うのではありません。時代という名前の神を拝んでもいません。確かに配慮ある表現は必要です。しかし、言葉を変えたからといって社会問題にもなっている差別意識は消えません。言い方を変えて罪深い本音を隠そうとしても、その本音は様々な形で漏れてきます。皮肉なことにネット社会、SNSによって人類の罪が暴露されています。罪は隠すことでは解決しません。全てを御存知の神に赦されるべきです。表現を変え過ぎて聖書のメッセージが変質されてはいけません。本日の後半は体が不自由な障害者になっても地獄に落ちるよりはいいという消極的メッセージです。

48節、イエス様は地獄の存在を大胆に肯定されています。「地獄なんてないから大丈夫」ではありません。地獄はあるし、永遠の刑罰という表現も別の聖書箇所にあります。大丈夫と励ますなら「イエス様さえ信じれば、殺人者でも罪が赦されます。そして地獄に行くどころか天国に行けるから大丈夫」です。これこそ究極の寛容です。49節の「火」、聖書では火は神の裁きと清さです。塩も神の清さです。50節は清くないクリスチャンの存在を暗示しています。私達信者も清さとは対極の罪に陥らないように誘惑には気をつけるべきです。塩気がなくなるとは聖霊に満たされていないことなので聖霊を受けて心に塩を持ちます。互いに平和とは人間的に穏やかにというよりも、主にあっての平和です。敵がいても復讐せずに祝福を祈ることです。イエス様が私達の味方です。罪への誘惑を聖霊の力で振り払いましょう。

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