神の国

2019年03月10日
川崎 献一師
マルコによる福音書10:13~16

本日のテーマ、日本宗教である神道の「神の国」を連想してしまうと的外れです。私達は「神風」ではなく、聖霊の風を信じる立場にいます。つまり、聖書の神、イエス様が宣教される中心テーマこそ神の国です。神の国=死後の天国と言う答えは、早とちりでしょう。天国は間違いではないですが、この現実の生活も含めた神の支配という意味での神の国です。死後まで待たなくとも、この地上も神が愛を持って造られた場所だからです。神の支配の中で、子ども達は軽んじられる傾向があります。聖書当時もそうです。人々はイエス様に触れるだけで子ども達が祝福されると思って連れてきたのです。この人々というのは、大人でしょう。親とか保護者とかは記されていません。身寄りがない子ども達だったかも知れません。

イエス様のことを一般の人は、キリストと呼びます。キリスト御自身は、100%清い方ですが、キリスト教と表現すると人間つまり罪人が関わってくるため、清くない面が出てしまいます。福音書に出てくる弟子達は、的外れの言動や行動が多いのです。現代の教会学校が子ども達を歓迎しているのに、本日のテキストでは弟子達が人々を叱ったとあります。これを現代風に言うと、子ども達を連れてきた大人を教会側が「子ども達は礼拝に出なくていい。すぐ帰りなさい」と告げていることに似ています。神からの祝福を教会が否定するようなことを弟子達は行っていたのです。弟子達に悪気はなかったでしょう。イエス様は、毎日お休みもなく働いておられる時に騒がしい子ども達が来たら、イエス様は余計に疲れてしまうという弟子達なりの配慮だったかも知れません。しかし、イエス様が子ども嫌いな筈がありません。イエス様ご自身にも、子ども時代がありました。いきなり大人の姿で「救い主登場です」ではありません。クリスマスの夜に赤ちゃんとして生まれて下さったイエス様は、マリアやヨセフを始め、多くの大人の世話も受けられて成長されました。体験なさったという事実は、想像力を膨らませて教えること以上に私達にとって説得力があります。イエス様は、子ども達を御覧になったら、お疲れになるどころか喜ばれました。それは子ども達こそ神の国に相応しいと思われたからです。 子ども達にも様々なタイプがあります。いつも、お利口で笑顔いっぱいの子どもとは限りません。表面的には憎いと思えてしまう子もいるでしょうが、子どもは素直です。態度は悪くても真剣に向き合って諭せば「ごめんなさい」と無邪気な自分に戻ることもあります。本日の聖書に出てくる子どもたちは、イエス様に抱き上げられる位の小さな体ですから、幼児の年齢でしょう。

神の国には子どもしか入れない訳ではありません。「子どものように」素直になればいいのです。子ども達を連れてきた人々も、弟子達には叱られましたが、子どものように純粋に神の祝福を子ども達に与えてほしいと思ったわけです。子どもような面があります。弟子達も、今日の場面では不覚にもイエス様に憤られましたが、悔い改めればいいのです。

イエス様は他の聖書箇所で弟子達のことを「幼子のような」と表現されています。イエス様の12弟子には無学な者が多く、当時の社会では尊敬されていない人達でした。現代社会では、職業差別発言は批判されますが、当時の価値観では漁師という肉体労働や取税人というローマ帝国の手先は嫌われ者でした。そんな彼らをイエス様は敢えて選んで下さっていたのです。ペトロはイエス様より人間的には年上なのですが、弟子として従っていました。

自分の罪を認めて悔い改めることは、プライドが高い人には難しいことです。その点、無邪気な子どもの内は「ごめんなさい」と謝り易いのではないでしょうか?その子どもも、神の恵みとは別のサタンの誘惑も受け「神の国」を受け入れない人にはならないように、多くのクリスチャンが、子どもの成長のためにも祈っていく必要があります。

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