割礼と洗礼

2017年1月29日
川崎 献一師
創世記17:1~14

日本人にとって、聖書は難しい書物でしょう。その理由の一つに元々の日本人にはない習慣のことが聖書には、よく書かれています。その一つが割礼です。割礼は、旧約時代には欠かせない儀式ですが、これは聖書が源というより、古代の中東地方では一般的な習慣でした。多くの国々で結婚する前に、グロテスクな話ですが、男性の急所の包皮にメスを入れていました。その割礼を神が「信仰のしるし」としてアブラハムに命じられたのです。まだ、アブラムという名前の時代に神は、彼に現れました。聖書には勿論、神のことがよく書かれているので、頻繁に現れる神という印象もありますが、よく読むと、かなり時間が経って現れることが多いのです。普段は見えない神は沈黙されています。いつ現れるかは、人には知らされていません。忘れた頃に現れる神でもあります。

新約時代には、割礼の代わりに洗礼という言葉が該当します。本日のテーマ「割礼と洗礼」には、共通の漢字として「礼」があります。これは「礼拝」や「礼儀」の「礼」です。割礼も洗礼も信仰的な通過儀礼です。その大きなケジメとして、アブラムには割礼の他に改名が命じられました。カトリック教会では、洗礼名というものが与えられます。洗礼を受けて、新しい人生の始まり、第2の誕生日を記念して、従来の名前とは別に、男性なら「サムエル、ダビデ、ヨハネ」等、女性なら「マリア、エステル、ルツ」等です。プロテスタント教会では、洗礼名などは特にないでしょう。それでも、名前の後に男性なら「兄」女性なら「姉」を付けて呼ぶこともあります。教会の週報には、そう記載されています。

痛みが伴う割礼の時代は終わり、主イエスが十 字架上で最悪の激痛を人類の代わりに受けられました。その恵みから現在では、主の御名によって洗礼を受けることで、神の民の証しの時代になったのです。旧約時代は、イスラエルが神の民でしたが、新約時代は教会、そしてクリスチャンこそ神の民です。

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