既に清い

2017年03月19日
川崎 献一師

イエス様は肝心な話を雄弁に語られました。イエス様と弟子達の関係を葡萄の木で例えています。イエス様は人間でもあるので、地上に植えられた木として謙虚に御自分を例えられています。農夫は、養って下さる父なる神です。イエス様を信じている人こそ、葡萄の幹に繋がっている枝です。これは、自動的ではなく、繋がりを拒む人は、イエス様から離れる自由もあります。試練と誘惑は、人を信仰から離れさせます。弟子達は、イエス様が十字架に掛かる直前に迫害するユダヤ人達を恐れた結果、イエス様を離れてしまい、試練に負けたのです。それでは、枝から実は出来ません。牧師である私は、神学校で「1度、清められた人も堕落は有り得る」と学びました。自動的に清くなるのではなく、清い方との交わりを絶えず行う。つまり、欠かせないのは祈りによって、イエス様の愛を受けて、神と人を愛することこそ、実を結ぶことです。

食事を例にします。一日3食とる人が、朝食のみ、とったら後は要らないという人は少ないでしょう。朝7時に食べても昼の12時には空腹になり、運動していると、更に早く空腹になります。大げさに言えば飢え渇きから、また食べたくなります。それと似ていて、信仰も1度信じたからいいわけではありません。この世も罪深く、自分自身にも罪はあります。罪とは魂の病気で、神から離れやすい性質のことです。流れに沿って、世の価値観を愛せば神から離れてしまいます。だからこそ、週に一回の日曜日だけではなく毎日、聖なる神の御言葉によって、霊的な飢え渇きを満たす必要があります。食事や適度な運動によって、肉体は養われますが、御言葉を素直に聞いて清くされた人は、御言葉によって更に養われ、実の目標であるイエス様に似た者を目指します   

当時の弟子達は、イエス様を見ていたから従ってきましたが、御言葉への理解は未熟で、後に逮捕されるイエス様を見捨てます。でも、イエス様が共におられることに素直な姿勢という一点から本日のテーマ「既に清い」とイエス様に言われたのです。