焼き尽くす献げ物

2017年05月21日
川崎 献一師
創世記22:1~19

神と共に歩んできたアブラハムですが、それはいつも100%アブラハムが神に従い通したという意味ではありません。アブラハムも人間です。失敗も一度や二度ではないでしょう。それでもアブラハムは、軌道修正して神に立ち返って信仰生活も晩年を迎えています。このまま無事に暮らしたいアブラハムに人生最大の試練が待っていました。それが本日のテーマです。私達は「献げ物」をする場合、献金を連想する人も多いでしょうが、礼拝も賛美も祈りも奉仕も神への献げ物です。只、献げ物の前に「焼き尽くす」という厳しい言葉があります。これは旧約時代、羊や牛、鳥など動物を焼き殺して神に献げるという行為です。この動物の代わりに神はアブラハムの独り子イサクを指名なさいました。100才の時、与えられた掛け替えのない子です。神はアブラハムがどんなにイサクを愛していたか御存知でした。神はアブラハムの信仰を試しておられました。いくら溺愛している子どもであっても、まさか神より大事ということはあるまいと思われる神なのです。 

アブラハムは、神に従いましたが、神によって羊が備えられていので、イサク自身の命は助かりました。羊を見つけて、どんなにホッとしたことか?焼き尽くす献げ物にしなかったので、アブラハムはイサクを献げたことにはならないのか?いえ、アブラハムは、神の命令通り、独り子を本気で殺そうとしたことから、献げたことになります。その神に徹底的に従う信仰は、イサクの命こそ献げなくて済みましたが、代わりに雄羊の命が献げられました。人の罪の犠牲には何かの命が必要です。旧約時代は、動物の命が犠牲にされました。14節、アブラハムの言葉が記念として残されています。私達も、必要な物は神が備えられていると信じましょう。最も必要な物は、新約時代はイエス様ご自身です。イエス様の死は、神への究極の献身であって容赦ありませんでした。イサクの命が助かったようなことはなく、イエス様の代わりに別の羊など備えられてありません。そして、イエス様は、火あぶりの刑ではなく、十字架刑でした。死刑の方法は違っても殺されることには変わりありません。よく、このイエス様の死のことを「屠られた小羊のように」と表現します。新約時代の恵みは、ここにあります。イエス様の死によって、代わりに何かの命の犠牲が必要な時代は終わっています。そして、何と常識を超えた死からの復活の命が、イエス様には備えられていました。クリスチャンには、この世の終わりでの復活の命が約束されています。ハレルヤ! 

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