聖化体験

2017年06月11日
川崎 献一師
ヘブライ人への手紙12:14~17

先週の新生体験は、第2の誕生日です。クリスチャンとして大事な通過点です。これを第1の誕生日である人生に例えるなら、この世に生まれてきたこと自体に意味があるという話ですが、もし生まれただけで満足なら、人は成長しなくてもいいのでしょうか?勿論、成長できない病の人や障害者の方は例外です。例外といえば、死ぬ直前に主イエスを信じて新生体験をして、そのまま召天ということもあるでしょう。私達は若くても高齢であっても、聖なる生活を命じられています。新生体験をした人は、イエス様によって罪が赦されています。そのイエス様が「私の十字架での死が、あなたのためにあったことを信じるなら、あなたの罪は赦されて魂も救われた。公に言い表して洗礼を受けよう。あとは、あなたの自由だ。自分勝手に生きよ。罪を犯しても、その罪も赦されているんだから。感謝しなさい」と言われたでしょうか?前半の赦しと救いと洗礼のくだりは正しいです。でも、罪を犯してもいいは間違っています。御言葉を都合よく解釈する人もいます。残念な現実ですが、罪を犯したくないのに、罪を犯してしまうから罪人です。消極的には「罪を犯さないようにする」姿勢も大事ですが、聖化とは積極的な信仰姿勢です。聖化とは、誰のようになればいいか?答えは簡単です。イエス様のようになることです。イエス様が、どんな方だったかとは福音書にあるイエス様の公生涯に、11節にある聖なる生活の模範があります。また、すべての人との平和とありますが、私達は家族や好きな人のみを愛していないか?また、利害関係にある場合は、自分が損をしたくないために、建前を使い平和を装って、人間関係を守っているだけではないか?と問われます。 

本日は、創世記のアブラハムの孫に当たるエサウを例を出しています。また、7月から創世記の講解説教に戻る予定ですが、神に選ばれたアブラハムの孫はヤコブ(後のイスラエル)です。そのヤコブの双子の兄がエサウです。神に選ばれなかった方なので、反面教師です。聖書では、イエス様は100%見習うべき方ですが、それ以外の登場人物は欠点があります。地上では罪人だから失敗は伴います。このエサウのことを「みだらとか俗悪な者」と酷評しています。エサウは、空腹になっていて自分が持っている長子の権利をヤコブが調理した食べ物と交換してしまったのです。これは長子の権利の尊さを忘れた愚かさを伝えています。食べること自体が悪いのではなく、神によって特別に与えられた霊的なものよりも、自分の食欲を優先させたことを俗悪と見なします。そして、エサウは後に長子の権利のみならず、父イサクから与えられる祝福まで失いました。旧約時代は、父を通しての祝福は一度きりです。後悔しても遅いのです。新約時代の祝福は、イエス様からのみです。他の祝福はありません。旧約のエサウは「聖なる生活」を追い求めず、自分の欲望に従ったのです。聖の反対は俗または罪です。私達は、イエス様を信じても「赦された罪人」に過ぎません。15節の神の恵みを受けているのに、苦い根が現れるとは罪の力により、古い自分に戻ることです。「聖なる生活」は、自動的に送れるものではありません。追い求めるとは、自力ではなく、常に「助け主なる聖霊」を真剣に祈り求めることです。

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