神癒体験

2017年06月18日
川崎 献一師

癒(いや)しは、世間でも聞く言葉です。赤ちゃんやペットを見て「心が癒される」という人も多くいます。マッサージを受けると体が癒されます。癒しは、世の人からの需要があるのです。需要を供給するという意味では、イエス様は宣教活動の中で医者としての働きも多くされました。このルカによる福音書の小見出しだけでも「いやす」という言葉が9回もあります。今日の箇所は、2つ目の癒しの出来事です。それも「多くの病人を癒す」と病名もなく抽象的な書かれ方です。イエス様は、人の病の癒しに出かけられました。後に12弟子の代表になるシモン・ペトロの家に行かれたことにも意図がありました。まだ、ペトロと名付けられる前のシモンは、ありふれた名前でした。そのシモンの妻の母が高熱で苦しんでいるという症状が記されています。 

イエス様は、宣教をされる前に病人に向き合われ、癒しを行われたのです。手を置いて癒される行為は正に「手当て」です。そんなことで癒されるなら医者など要らないわけですが、イエス様は肉体~心の病に対する医者でもあるのです。41節から登場する悪霊は、イエス様の正体を知っていました。悪霊は人間より賢く、その悪霊の力によって異常な心の人がいたのです。現代では異常心理学の評論家までいますが、それを悪霊の仕業とはしないでしょう。当時の悪霊であっても、神の子イエス様には、敵いません。イエス様は、宣教の方が大事とは思っておられますが、人の話を聴くどころではない病人に対しては治療が先立ちます。健康が回復してから、私の話を聴きなさいと言われているのです。 

教会は現実社会に建てられています。常識外れの聖書ばかり読んでないで、現実を見てという声があります。その現実の中で、病の問題は深刻な面もあります。約2000年前にはなかったような病も現代にはあります。食物アレルギーのことは聖書にありませんが、現代では非常に増えています。中には誤って食べてはならない物を食し、命を失う人もいます。アダムとエバの事件をも連想します。あの2人には、アレルギーはなかったでしょうが、長寿は許されたものの、人は必ず死ぬことになってしまいました。罪を犯す前の人類には、人は死んで当然という世界はなかったのです。人類の罪はアレルギー問題も含め、様々な形で現代人に警告しているようです。そして、体や心の病以上に、厄介なのが罪という名前の魂の病です。これはイエス様にとっても簡単なことではありませんでした。体や心の病なら、魂に比べれば表面的なことなので、イエス様は苦しまなくてもいいのですが、罪の問題は、イエス様ご自身が苦しむ必要性がありました。何故か?それが父なる神の御心だからです。それは、イエス様が人類の身代わりに神から罰を受けることによって現わされる十字架の愛からくる真の癒し、究極の神癒です。  

体も心も丈夫と思っている人でも魂は病んでいます。どんな人でも生まれつき罪人です。その結果、病気を始め人類には多くの負の出来事が伴うのです。重病の結果、死ぬ人もいます。いくら、神癒を体験しても最期には、死が待っています。本日は、イエス様の神癒だったので、イエス様しか出来なかったことと思われやすいですが、実は、他の弟子たちや現代のクリスチャンでもイエス様の御名によって祈れば神癒も充分あるのです。即効性はなくとも、神癒を信じて祈りましょう。そして、罪の赦しからの魂の平安こそ究極的な神癒体験です。