再臨待望

2017年06月25日
川崎 献一師
ヨハネの黙示録22:6~13

今から75年前、1942年6月26日、特にホーリネス派の教会は、国家から酷い弾圧を受けました。当時は、信教の自由などなく、現人神・天皇を拝むことが強制されていました。最近、慎重な議論を重ねた上、特例としての天皇の生前退位が認められました。象徴・天皇であり、既に人間宣言もされています。確かに天皇であっても人間なので当然です。それまでの天皇の神格化こそ、異常な思想だったわけで、今でも北朝鮮は、その洗脳政治が続いています。 

今年の四重の福音・強調月間は、体験シリーズとしました。前の3つ(新生・聖化・神癒)は、体験者からの証しが聴けます。只、聖化体験したクリスチャンの人数は極めて少ないでしょう。神癒体験なら、未信者でも体験できます。病を治して下さったのは神と信じられる人は、神に感謝できます。その信仰をきっかけに新生体験に期待が出来ます。体験があってこそ説得力がある信仰なのですが、最後の再臨は、まだ誰も体験していません。いつの日か、私達も再臨体験の時が来ることを信じ、待望しています。 

本日のテキストは、その預言が天使によってヨハネに告げられています。天使は聖書の最後にまで登場します。長い歴史の中での人間の預言者や現代の伝道者以上に「天の使い」として相応しい働きです。天使は「すぐにでも起こる筈のこと」と告げますが、この「すぐに」とは嘘のようにも聴こえます。それは、主イエスが昇天されてから約2000年もたっているからです。その考え方は、人間的です。神の目からは2000年など大したことないのです。神が時間をも造られ、支配されているからです。人の思いが神の御心よりも優先される時、罪となります。つまり「すぐに」と聖書にあるのに実現していないからといって神の言葉は信じられないと思うことです。

再臨の時期は、人には知らされていません。「今、主が来られたら困るから、待望などしていない」と思う人は、今の信仰に自信がないのか、または世での目標があって、そのことを果たせないことが嫌なのでしょうか?3年後の東京オリンピックを楽しみにしている人は、再臨なんて考えたくないかも知れません。気持ちもわかりますが、再臨も含めて神の御言葉より他に優先されることがあっては神を第一としてはいません。宗教改革500周年を迎えていますが、ルターの再臨への姿勢は「今日、主が来られるとしても、私は林檎の木を植える」です。主の再臨に備えつつも、私達は今すべきことを精一杯するのです。クリスマスにマリアから生まれた人間イエスは、私達の罪のために十字架に掛けられた救い主で、それが初臨でした。今度は神らしく裁き主として雲に乗って来られることが再臨です。13節は、時間をも支配される永遠なる方・主イエスの神宣言です。

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