平和の旅路

2017年8月06日
川崎 献一師
創世記24:28~49

毎年、8月第一日曜日は、平和主日です。特に今年は、広島に原爆が投下された記念日にも当たります。あれから72年の歳月が流れました。「戦争という悪い出来事を風化させるな!」と、マスコミを含め社会全体も意識するように努めていますが、教会でも毎年記念礼拝を献げます。戦争がない平和が、どんなに良いかは多くの人が共感することです。只、国家間の戦争さえなければ平和と言えるのか?確かに外国でテロ事件が勃発すると、日本ではそんなことは起きてほしくないと思います。震災や大雨の被害でも死者が出て大変なので、人災である戦争だけは行っても、応じてもいけません。勿論ですが、戦争が起きなくても一方では、毎年3万人前後の自殺者が出ている現実もあります。そもそも、戦争だけではない平和を乱すこと、希望が見えず、多くの人が悲しむことが起きる原因は何か?聖書は、はっきりと告げています。それは、創造主なる神から離れた罪の結果です。 

各々の時代における平和の旅路を私達は目指します。21世紀に入って20年近く経ちますが、現代が平和な社会と言えるでしょうか?いきなりニューヨークでは同時多発テロ事件がありました。フセインの独裁政権は砕かれましたが、他にも独裁者は残っています。日本の政治も、戦争可能の憲法に変える動きがあり、混沌とした時代は続いているのです。この創世記の時代に、僕は主人の息子の嫁探しのために用いられました。異教的な表現では「縁結びの神」に似たことをしていますが、聖書は人ではなく、神に栄光を帰します。また、物語の内容も個人的な流れにも思えますが、これは、将来の人類への真の平和のために必要だったのです。 

社会的な平和も大事ですが、真の平和は個人の働きから来ます。それは、アダムとエバによる個人的な罪から始まった必ず死が伴う負の歴史は、社会的な力では解決されません。神の前での罪人が結集しても、有限な平和しか作れません。つまり、イサクの子孫である罪なきイエス様の十字架の贖罪の極めて個人的な御業に尽きるのです。多くの人が実感を持てないでしょうが、主イエスの到来以外には真の「平和の旅路」は有り得ません。わかりやすく大胆に言えば「戦争は大反対!でも、キリストは信じません」では、真の平和は得られないのです。これをキリスト教・原理主義の独断と思ってしまう人は多いでしょう。でも私達は、愚直にも神と個人的な交わりを深めて、教会という社会の中に建てられた公の場で礼拝を献げ続けます。個人の魂の救いと同時に世界平和のためにも祈ります。礼拝の中の聖餐式(カトリック教会ではミサ)にも平和メッセージは含まれています。  

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