冷たい水一杯

2017年08月27日
川崎 献一師
マタイによる福音書10:40~42

本日のテキストは短いですが、深いメッセージです。40節の「あなたがた」とはイエス様の弟子達のことですが、広い意味ではクリスチャン全体です。「私」とはイエス様のこと。そして「私を遣わされた方」とは他でもない「神」のことです。それで「クリスチャンを受け入れる人は、イエス様を受け入れ、イエス様を受け入れる人は神を受け入れる」という三段論法が成り立ちます。 

クリスチャンにも、色んなタイプがあります。当時の12弟子にも各自個性がありました。致命的な反面教師でもあるユダもいましたが、私達も日々、イエス様を裏切るような言動、態度にはなっていないでしょうか?行動的ですが、軽率な面もあるペトロや短気なヨハネなど、清められる前の弟子達は、あまり模範になりません。同じく現代の私達も品行方正なクリスチャンばかりではありません。イエス様を受け入れる前にクリスチャンに躓く人も多いでしょう。信者でも罪人ですが、罪を悔い改める術を知る信者を受け入れるならイエス様を受け入れ、同時に父なる神をも受け入れられるような神の導きに期待できます。

 41節の預言者とは、今ではカトリックの神父や牧師、伝道者のことも意味します。その資格がある者、神から召命を受けている人として見ているか問われます。人間的には大したことないと思われる人をも「神に召された預言者」として見るということは「そんな者をも神は召された」のです。神の御業は計り知れない」という意味で「人ではなく神に期待する」のです。次の「正しい者」とは誰か?「イエス様を信じて洗礼を受けた人達」つまりクリスチャンのことです。受洗者は「赦されたとはいえ罪人」という謙虚さを忘れてはいけません。しかし同時に「信仰義認」といって100%正しい方・イエス様の十字架の愛を信じたら「正しい者」と見なされている喜びは大胆に受け取るべき恵みです。最後の42節は、今月の上町教会の暗唱聖句です。本日のテーマから真夏に相応しい報いの例だと示されました。真冬だったら「熱い珈琲」とでも表現した方が相応しいでしょうか。キーポイントは「私の弟子だという理由」という点です。「誰に対しても」ではないのか?と思う人もいるかも知れません。いわゆる人情からの親切心ではないのです。当時の感覚では、弟子達の師匠に当たるイエス様が完璧な方なのです。今では、イエス様は見えない方なので、信仰の対象であるイエス様、そして、その父なる神が絶対的に素晴らしい方だからです。

教会やみふみ幼稚園に理解や好意を持っている人は少なくありません。また行いの面では、クリスチャンよりも見倣うべき人達も多く見えます。でも、肝心な信仰は神からの特別な恵み、つまり祝福です。素晴らしい行いや謙虚な態度は人々を惹きつけますが、その原動力は何か?持ち前の人の良さ、寛容さ、向上心等は、人には評価されますが、罪人の自覚がなければ、神は悲しまれます。罪といえば、この世的なことしか連想できませんか?真の神は、イエス様を遣わされた方です。その神の御心に適わないことこそ罪です。クリスチャンの善行は罪が赦された喜び、つまり、イエス様の愛に感謝している信仰からきている筈です。天国へ行ったら、イエス様のように罪が全くない人になります。天国には罪が赦された人が行けます。信者にはなっていない人には「未信者」という表現もありますが、「未来の信者」とも言えます。周りの理解者の方々が、礼拝に出続けることで求道者に変えられ、そして、洗礼の恵みを受けられる時を私達は待ち望んでいます。本日の最後「必ず報いを受ける」という御言葉に期待して神に祈っています。

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