命の冠

2017年09月17日
川崎 献一師
ヤコブの手紙1:12~18

聖書は、神が与えて下さった命(賜物)ということを大前提としています。最初の12節が今月の上町教会の暗唱聖句です。その中の「命の冠」をテーマとしたのは、敬老感謝礼拝にも相応しいからです。長寿は、旧約時代からの神からの祝福です。アブラハム(75才)やモーセ(80才)が現代で言う後期高齢者になってから、神からの召命を受けたことは特筆すべきことでしょう。若い頃のようには体が動かなくても、神が共におられたら、前進できます。活力も健康も神からの賜物です。そして、長寿も神からの祝福の賜物ですが、絶対的な祝福ではありません。何故なら、長寿に行き着くまでに死んだ人は、祝福されていないとは言えないからです。それを人間的にも実証されたのがイエス様です。享年33才、まだまだキリスト教を伝えるために働いてほしかった矢先の死でした。そこには神の御心があり、イエス様の宣教は約3年間で充分だったのです。後は、イエス様の弟子達に宅されます。イエス様ご自身は、復活の命を現して、弟子達が見ている前で昇天されました。つまり、新約時代はイエス様に繋がっている人こそ、神から祝福されているのです。 

試練があっても、祈って「忍耐力」を神から受けて「命の冠」を受ける人は、言い換えれば「永遠の命」を冠とする感謝なことです。試練に遭っても神の御言葉に励まされ、試練を「自分の十字架」と信じて避けずに具体的に正直に祈って乗り越えたのです。その背景には聖霊の働きがあり、神に愛されている応答として、神を愛する信仰、つまり神に従う姿勢です。一方、13節からは試練より厄介な誘惑です。神は試練を与えますが、誘惑はなさいません。誘惑はエバを騙した蛇から始まるサタンの業です。サタンの働きを神は許容されているだけです。試練と違い、誘惑は魅力的なことです。誘惑に遭っている時は、苦しくはないので、神と交わらなくても満足できます。祈りも形式的になり、中には祈らなくなるクリスチャンも出てきます。神に感謝する心も麻痺して誘惑に遭っていることにも気付きません。 

17節の後半に神と私達人間の決定的違いが書かれています。それは神は変わらない方ということです。年をとることもなく死ぬこともなく私達への導き方を変えることはあっても、それは手段です。神の本質は変わりません。一方、私達は肉体的にも心の姿勢も変わります。信仰も揺れ動き、素晴らしい信仰者の時もあれば、サタンのような怖い人にも成り得るのです。「命の冠」は、敬老者のみならず、イエス様に立ち返った人全てに頂ける恵みです。最後の初穂とは、実はイエス様こそ復活の命の初穂です。私達にも復活の命が約束されているのです。日曜日は、教会へ行きましょう!アーメン 

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