再臨の時

2016年06月26日
川崎 献一
テサロニケの信徒への手紙一4:13~18

この再臨信仰こそ、戦時中の施政者の標的とされました。当時の日本は、天皇こそ「現人神(あらひとがみ)」という思想でしたが、クリスチャンにとって、敢えて「現人神」と言うなら、神が人となられた主イエス以外には、有り得ません。

再臨とは、その主が世に再び見える姿で来られることです。既に約2000年前にクリスマスの夜、主が人として生まれたことを初臨と呼びます。教会では、「臨在」という言葉を使いますが、再臨を「主の再来」と言ってもいいでしょう。只、「再び、この世に臨(のぞ)まれる」という強い意味が再臨にはあり、それは信者にとっては「救いの完成」の時ですが、未信者たちには裁きの時となります。

主の初臨は、赤ちゃんイエスとして人生が始まりましたが、再臨は、一度は十字架で死なれた主が復活されて大人の姿で雲の上に乗って登場されます。今度は、神らしく現れます。日時は、人には知らされていません。だからこそ、私達は主の再臨に備えて、礼拝を捧げ、伝道(魂の救いのための究極の隣人愛)に励みます。世の多くの人々が、死別した人達に悲しみますが、クリスチャンの死は、一時的に寂しいだけで、世の終わりの時には、主の復活があったように、私達も復活するという約束の希望があります。

ペンテコステ(初代教会の誕生日)の出来事も、激風の音や炎の舌のようなと劇的な描写でしたが、再臨は、それ以上に大天使の声、神のラッパ、主の天国からの直下と華々しい印象を与えます。更に、順番があり、死んだクリスチャンたちの復活、そして、生き残った者が後に続き、空中で主と会うために死も経験せずに、天へ行くという話です。信じない人は、「ありえない」と呆れるでしょう。

この手紙(聖書の一部)を書いたパウロも殺されましたが、今は眠りについています。約70年前の弾圧を受けて死んだ信者たちも、客観的には墓の中にいます。人類は、主の再臨がない限りは、地上的には死に続けます。只、聖書では、死を眠りと表現しています。いずれ、起きるという前提の眠りです。死んでも復活して、また生きることを私達は信じています。死で終わらない復活&再臨を待望するメッセージは、大変な日々でも励みとなります。

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