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黄金律

2017年10月29日
川崎 献一師
ルカによる福音書10:25~37

本日のテーマは、今月の上町教会の暗唱聖句からです。 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」    マタイによる福音書7章12節

<世間では似た言葉として「人が嫌がることは、しない」という道徳教育がありますが、聖句と比べれば消極的です。例えば、電車の中で携帯電話を使って話していれば、周りの人には迷惑です。自分が他者の立場になれば分かる筈です。電車を降りてから携帯電話を使うべきです。消極的な意味からは大事なマナーですが、聖書では、もっと積極的な姿勢を勧めています。同じ電車の中の話にしますが、80才以上の高齢者がつり革を握って立って足元がフラついています。一方、40才位の人が席に座っています。その人も体が疲れているので、席に座っていたくても、自分が高齢者の立場になれば、誰かに席を替わってほしいという想像力が働きます。それで今月の暗唱聖句に従うなら、その点は神の御心に適います。高齢者の隣人になったということでしょう。その最高峰の律法が、聖書箇所は違えど本日のテキストで黄金律を実践した人の素晴らしい心の姿勢です。/p>

当時、サマリア人とユダヤ人は不仲です。むしろ、祭司やレビ人こそ、同胞のユダヤ人が倒れていたら介抱すべき立場です。しかし、現実は逆でした。サマリア人は、倒れている人を見て「何人(なにじん)か?」とは思いません。単純に憐れに思ったのです。その結果、この人のために今の自分に何が出来るかと考えます。油とぶどう酒と包帯を持ち合わせていました。更に伴っていたロバに乗せ、宿屋に連れて行きました。そして、すぐ宿屋の人に引き渡すのではなく、介抱しました。「何というお人好し」と思ってしまう人もいるでしょうか?このサマリア人も急ぎの用事はあったようです。それで、お金(日本円にすると2万円?)を宿屋の主人に渡し、更に費用がかかるならと配慮のまでします。倒れた人を無視した祭司やレビ人の姿勢に比べ、詳細に記されています。 この行いの基盤には、神の愛があります。神は、ユダヤ人だけの神ではありません。神の律法には、ユダヤ人とサマリア人との間に区別はあっても差別はありません。他の例をあげると男女の区別はあり、役割分担も必要でしょうが、男女間で差別があってはいけません。神はアダムを優れた者、エバを劣った者としては造られていません。その神の本来の御心に反し、世の多くの人が如何に差別と偏見を(無意識であっても)持っていることでしょうか?

クリスチャンにも様々なタイプの人がいます。最初は、イエス様を試す悪意があった律法の専門家も、イエス様の話を聞いて罪を示され、悔い改めたら幸いです。もし、彼が同じように追い剥ぎに半殺しにされた時、助けてくれた人がサマリア人だったら、どうでしょう?「何故、俺を助けた?サマリア人に助けられる位なら殺された方がマシだった」と思うなら絶望的です。でも、この人の37節の答えには希望があります。助かりたい、人に優しくされたいことを正直に認め、人に同じようなことが出来る隣人に変えられます。これが旧約聖書の中心となる律法と預言者の本来の意味です。人を縛り、裁くための律法の解釈から解放されて、愛の律法を成就させるためのイエス様の到来だったのです。ハレルヤ!

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