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「信仰による生涯」マタイによる福音書21章18-32節

2021年10月3日
担任教師 武石晃正

 教会暦は聖霊降臨節第20主日を数えました。ペンテコステの聖霊降臨日から降誕前までの期間、聖霊降臨節として今年は22回の主日が備えられます。
 聖霊降臨節は「父・子・聖霊なる、三位一体の神」の聖霊様を覚えると同時に、主の霊によって生み出された教会について思いを寄せる期間でもあります。ですからマタイによる福音書を読むにあたりましても、イエス様ご自身のお言葉が教会の時代において書き記されたということを意識してきた次第です。

 御父から遣わされた御子が聖霊によってお生まれくださり、バプテスマによって聖霊の証印を受けて、お言葉とみわざとをお示しになりました。この聖霊が弟子たちに降り、福音を語らせ教会のわざを行わせたのです。そして今なお聖霊はキリストの教会に、またキリストを信じる一人一人に与えられています。
 本日の箇所は聖霊をいただいた者の生き方、信仰による生涯について、天の国との関係に照らして示されるところです。

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「気前のよい天の国」マタイによる福音書20章1-16節

2021年9月26日
担任教師 武石晃正

 9月も最後の聖日を迎えました。2021年度は昨年に引き続き全世界的な感染症に悩まされ、また各々に置かれましても煩いや苦しみを覚えつつも、主の恵みによって生かされ守られたことと感謝をいたします。
 文字通り「死の陰の谷」(詩23:4)と呼ばれるところから助け出された方もおられますし、今なお重ねての闘病の内におられる方も覚えます。癒し主であるイエス・キリストの御わざが速やかに現わされることを願い祈ります。

 本日もそれぞれの場所で主日礼拝を守っておりますが、今年度は続けてマタイによる福音書を読み進めております。福音書では主イエス様が「天の国」について様々な角度からたとえを用いて説かれておりまして、朗読の箇所では天の国が気前のよいぶどう園の主人にたとえられています。
 
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「天に富を積む」マタイによる福音書19章13-30節

2021年9月19日
担任教師 武石晃正

 先週は「隣人を愛する」と題しまして、赦すということについてみことばから取り扱いを受けました。「七の七十倍までも赦しなさい」と弟子たちに説かれたイエス様は、赦すということは「その借金を帳消しにして」やることだと教えられます(マタイ18:22,27)。
 もしその場では赦してもらっても、後から取り立てに来られると思ったなら私たちの心は休まることがないでしょう。天の父は「小さな者」が一人でも滅びないようにと、赦しを求める者には罪や背きを帳消し、つまり初めからなかったことにしてくださろうというのです。支払いのために御子をもくださった憐れみ深さに感謝します。

 では誰かがあなたに罪を犯すとか悪意を向けたとして、イエス様の教えのとおりあなたがそれを何度でも赦し続けるとしましょう。貸したお金を返してもらうのは当然のことだとしても、そのほかを赦してばかりいたら損ばかりしているような気がするとおもいませんか。時に「誰が私に償ってくれるのか」とつぶやいたり叫んだりしたくなるでしょう。
 イエス様は赦すことや憐れむことで私たちが損をすることがないように、「天に富を積む」ことについて教えてくださいました。

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「隣人を愛する」マタイによる福音書18章21-35節

2021年9月12日
担任教師 武石晃正

 「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(18:1)とイエス様のお弟子さんたちはいつも気にしていたようです。教会の中で「私が一番偉い」と名乗り出る人は滅多におられないとは思いますが、人の目を互いに気にしてしまうという場面がおありではないでしょうか。
 偉いかどうかはともかくとして、教会以外の普段の生活においても自分と他人との間に優劣をつけてしまうこともあります。「なんであの人からこんなこと言われなくちゃならないんだ」と感じるとき、それが全くいわれのない出まかせであれば別ですが、無意識にも「あの人」を自分より見下げてしまっているものです。

 人を赦すという愛の行為においても、「赦してあげる」という上からの目線で相手を見てしまったり、何らかの貸しを作ってしまったりとなかなか難しいものです。赦したつもりなのに、あるいは仲直りをしたはずなのに、悶々としてしまうこともあるわけです。
 本日は朗読した箇所を中心に「隣人を愛する」と題して、特に赦すという一面から考える機会が与えられています。

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「教会の一致と交わり」マタイによる福音書18章10-20節

2021年9月5日
担任教師 武石晃正

 先週より緊急事態宣言に対応しての礼拝を行っております。一人一人においても教会においても困難を覚えるところですが、祈りと忍耐とによって各々の場所で礼拝が捧げられていることを主に感謝します。どこにおいても主が共におられることの証となります。

 主にある教会は福音書が記された時代から今に至るまで様々な困難に直面してきました。歴史上の教会において、時には為政者その他の権力からの迫害、時には疫病、時には教会内における争いや分裂がありました。
 キリストを信じれば救われると聞いて信仰の道に入ったものの、困難ばかりが続くということもあるでしょう。本当に神様は守ってくださるのかとつぶやきたくなるような場面は、信仰者であれば大なり小なり何度も経験するところです。

 イエス様はやがて天にお帰りになることを思い、予めお弟子たちに後々のことまで言い含めておられました。弟子たちはペンテコステの後、教会を建て上げながらその教えを口伝えで広めていきました。
 その教えの中には天の国がこの世の国から受ける迫害や困難のこともありました。また特に困難に際して教会内に起こりうる仲間割れや分裂のこともありました。かつてイエス様を前に「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」と求めた弟子たちが、回顧と自戒の念を込めながら伝えたであろう教えが開かれています。


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