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悔い改め

2018年01月07日
川崎 献一師
マルコによる福音書1:1~8

昨年まで主日礼拝で断続的に講解説教していた創世記は、水曜日の祈祷会で学ぶことにしました。主日には、新約聖書の方がより相応しいと判断して、マルコによる福音書の講解説教に入ります。福音書が4つある内、一番古いものがマルコ伝です。一番短い福音書でもあります。若いマルコが、細かく書かなかった点を他の福音書が補っています。マルコは肝心なクリスマスの出来事には触れず、洗礼者ヨハネが最初に登場します。イエス様の降誕は、人類史上最大の誕生日です。それでマルコ伝より後に書かれたマタイによる福音書の方が新約聖書を編纂する際に最初に持っていかれたわけです。

本日のテーマは、「悔い改め」です。これは罪の自覚がない人には意味が分かりません。罪の赦しは、イエス様の十字架を信じて有効です。それを毎月再確認するのが、第一主日の礼拝の中での聖餐式です。罪の悔い改めは、罪も告白します。神は、私達が祈り願う前から私達の必要を御存知であるように、罪を告白する前から罪の内容も御存知です。それでも、自分の罪を隠さずに口に出して告白する勇気を神は望まれています。本日のテキストでも、ヨハネという人に対して罪の告白をしていることが5節の後半に書かれています。人には言いたくない罪だってあるでしょう。罪とは神の前での問題ですが、ユダヤ教の背景がない日本人には分かりにくいため、洗礼を受けて「イエス様を信じた」と言い聞かせても「罪が赦された」実感には乏しい人も少なくありません。

現代の教会では、ヨハネからの洗礼を先に受けてから、イエスの御名によって聖霊の洗礼を受けることはありません。本日のテキストの時点では、まだイエス様が十字架に掛かる前だからです。それで、先に神の前での罪を悔い改めさせようとヨハネは導いたのです。罪の告白を聴いて、ヨルダン川で洗礼を授けることまでがヨハネの役割でした。分かりやすく言えばヨハネはこう言いたかったのでしょう。「神は、罪の告白を悔い改めとして喜ばれている。もう、罪を犯さないように。しかし、私ヨハネには、そんな罪を赦す権限はない。なぜなら私も罪人だから。それでも預言者及び洗礼者として神に立てられた神の器ではある。私より遥かに優れた罪がないイエス様こそ、あなたがたの罪を赦すことが出来る。只、イエス様は水ではなく、聖霊の力で洗礼を授けると私は神から聴いている」と。現代では、イエス様の御名によって水で受洗したことは事実でも、信仰生活を見て内容が伴わないことも多々あります。言い換えれば未完成のようなクリスチャンです。それは洗礼式の時、牧師が式文にある言葉を使っても聖霊が実際に働かれるのには、別に定められた「神の時」があるからです。勿論、洗礼式と同時に聖霊が働かれて本物のクリスチャンに造り上げられることもあるでしょう。

ちいろば先生として有名な榎本保郎牧師は、仏教の家庭に生まれ育ったのですが、イエス様と出会った喜びから洗礼を受ける前に伝道を始めました。洗礼式を重んじないでイエス様の福音の素晴らしさを先に人々に伝えていたのです。まるでイエス様が産まれたことを天使から知らされた羊飼い達の直後のような個人伝道です。罪の赦しや救いの喜びは後から付いてきたのでしょう。難しいことは分からないけど、イエス様の到来は喜びなんだという単純に感謝する信仰です。いずれ、キリスト教信仰には罪の悔い改めが重要ということが分かります。本日のテキストでは、秩序正しく悔い改めからの罪の赦しの信仰を学ばされます。

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