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羊飼いイエス

2018年02月25日
川崎 献一師
ヨハネによる福音書10:7~21

聖書に一番出てくる動物は羊です。日本人には馴染みが薄いでしょう。犬や猫の方がポピュラーでしょうが、あくまでもペットです。中には盲導犬もいます。そして、知り合いに羊飼いが要る人は珍しいでしょう。聖書時代のユダヤ社会には、羊が多くいたため羊飼いも多くいました。羊の存在は生活には欠かせません。

羊の門というのは、今ではキリスト教入門のことになるかも知れません。私が、神学生時代、毎主日、東京の小松川教会へ派遣されていました。礼拝前に求道者の方へ聖書を易しく教えるための「キリスト教入門講座」がありました。その中で中年男性が「聖書では、罪を問題にしていますが、悪いことって結構楽しいものですよ」と言いました。すると当時の年配の婦人牧師が「悪いことが楽しいのに、なぜ教会へ来られるのですか?」と訊きました。男性は「それが分からない。聖書の教えから言えば、羊が迷い込んだみたいに教会へ入ってきたのでしょうか?」この会話から言えることは、羊は最初から羊という自覚はないのかも知れません。神は、結果を御存知ですから、神に選ばれている人のことを羊と呼んでいるのです。つまり、羊飼いの導きによって「自分は神の目から見たら羊だったんだ」と後で知るのです。それを霊の目が開かれる時とも言います。一般の人は、自分を羊とは思っていません。人間と思っています。でも、教会という以前に聖書では、神に従おうとする人を羊と称します。羊は弱い動物ですが、自我が強い生き物です。群れから逸(はぐ)れて一匹では生きていけません。野獣に狙われたり、迷子になって崖から落ちる危険もあります。それで正しい羊飼い(イエス様)の下で自由に放牧される必要があるのです。

イエス様が命を捨てるとは神の御計画のために御自身の命を十字架上で献げることです。再び受けるとは死者からの復活を指します。全て父なる神に従う故に、神はイエス様を愛してくださるのです。従うと聞くと何か自由がないみたいですが、逆です。神に従うからこそ、本当の自由を得られるのです。ここに神に造られた者という謙虚な信仰を見出します。神から独立というとカッコいいのでしょうが、人間の親から独立するのとは訳が違います。神から離れて自由を求めること自体が愚かです。自分の人生が創造主なる神から与えられたものという信仰がないことを証ししています。羊は、羊飼いの下で自由に放牧され、いつでも羊飼いの下に帰られるように祈りつつ行動すべきです。その姿勢を神と共に歩むというのです。

イエス様が言われた「一つの群れ」とは教会のことです。イエス様は伝道の使命をも語られています。この囲いに入っていない羊とは、ユダヤ人以外の異邦人、時代を越えて日本人たちも対象としています。また今、教会に集っている人のみならず、更に教会の外にいる人々の羊飼いとしてイエス様の愛の招きは続いています。

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