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誘惑と祈り

2018年03月18日
川崎 献一師
ルカによる福音書22:39~46

日本では、あまり聞かれない言葉「レント」は、イエス様の十字架の受難を深く想う時(約40日)です。一般社会での、この時期は年度末であり、新年度を迎える準備の時です。仕事をしている人には、慌ただしく感じます。忙しいという漢字は心を亡くすといってイライラし易くなります。人に八つ当たりする場合もあります。そんな中でも、クリスチャンは今はレントだから特に鎮まって心を神に向けようとしたいものです。レントどころではない目の前の現実の方が大事だという思いは、誘惑を受けているとも言えます。神の御心を見失わないように神と交わる時間を確保することは非常に大事です。 神から離れることを聖書では「罪」と言います。誘惑する者の目的は、人に罪を犯させることです。誘惑を受けてもイエス様には罪がないので、神から離れたことはありません。逆に私達は、神から離れやすい性質である罪を持っているため、簡単に誘惑に負けることがあります

イエス様は、御自分が死刑になることを御存知でしたから、眠れない状態だったかも知れません。人間イエスとして、死を前にして平静ではいられません。弟子達は、イエス様から十字架の出来事が実現することを聞かされていますが、イエス様の御心とは温度差がありました。それでイエス様に注意されています。この誘惑とは、睡魔のことです。  本日の弟子達には、サタンは睡眠欲を用いて誘惑しているのです。弟子達にとって夜が深まったら眠くて当然でしょう。その日は、色んなことがあって疲れも絶頂です。眠いのなら、そのまま眠った方が自然です。でも、イエス様は弟子達も一緒に祈ってほしかったのです。勿論、眠ること自体が罪ではありません。只、間もなく十字架に掛けられるイエス様の御心を弟子達にも共有してほしかったのです。

祈りの中で一番大事なことは「神の御心」です。御利益を求める人は「自分の願い」が一番になるでしょう。イエス様は御自分の願いも正直に祈られました。罪がないイエス様が祈られたのですから、「祈り願う=罪ではない」ことが分かります。「この杯」とは苦しみを表す言葉です。イエス様の苦しみとは「十字架刑」のことです。この杯こそ、神の御心ということはイエス様は御存知です。それでも、人間イエスとしては祈らずにはいられなかった。それ程、苦しいことです。そして、弟子の代わりに天使が登場しています。神は、独り子イエスのために天使を送られました。私達も「苦しい時にも、正直な気持ちを祈るべき」ことを学びます。やせ我慢することはありません。今の私達にとっては天使というより、目には見えないイエス様=聖霊からの励ましを受けます。  また、神の御心を優先する祈りには自分との戦いがあることを学びます。もし、イエス様が「この杯を取りのけて下さい」つまり「十字架に掛からないようにして下さい」と祈られただけで「神の御心」を問わなかったらどうでしょう?聖なるイエス様の願いなら、神は実現させて下さいますが、イエス様の預言は真実ではなかったことになります。そして、私達の罪からの救いもなくなります。そうならないためにイエス様でさえ自分、つまり「保身を考えるもう一人の自分」と戦われたのです。誰だって人間なら、いや他の動物でも殺されるのは嫌なことです。只、動物は本能的に危機から逃げることはしても、神に祈ることはありません。祈りは、人類に神から与えられた恵みの特権です。神を信じていない人でも「土壇場になったら、神様!助けて」と叫ぶこともあります。そして、このような体験を神の子イエス様がされたこと自体に大きな意味があるのです。 このイエス様に対して、弟子達は既に誘惑に陥っていました。「悲しみの果てに眠り込んでいる」というのも不思議な表現です。普通、イエス様の死を思えば悲し過ぎて眠れなくなると思わないでしょうか?これは、眠ることによっての現実逃避もあったことでしょう。イエス様の死に向き合うための祈りなど弟子達の心には重過ぎます。無意識に自己防衛のためにも睡魔が襲ったことは、弟子達には好都合だったのでしょうか?自我と戦うことすら、放棄したくなることがあります。イエス様の死を避けられないとは、諦めるしかないということです。祈ることすら出来なくなるクリスチャンもいます。祈りは信仰者の武器といっても、死という大きな壁に放心状態です。挙句の果てには眠ってしまっている内に、いつの間にか問題が解決すればいいのにという無責任な思いになったことはありませんか?勿論、褒められた姿勢ではありませんが、イエス様と共に霊的な意味で戦えない、つまり祈ることも出来ない弟子達の弱さをイエス様は御存知です。

イエス様は至って冷静です。一時は感情的な祈りをされた方とは別人のようです。切実に祈った後は神に委ねるのです。イエス様は、神の御心をはっきりと知っておられます。「杯が取り去られることはない」と覚悟を決めておられます。誘惑に負けた弟子達を怒ることもされません。イエス様は、現実を直視しておられます。弟子達は、神の御言葉に従いたくても従えなかった弱い者たちです。それでイエス様の弟子達への愛が消えることはありません。人は誘惑に陥る者です。只、それまでは誘惑に弱かった人が「イエス様を信じて祈っていたら、誘惑に勝利できるようなった」という人に変えられたら聖霊の働きです。イエス様の愛は、当時の弟子達のみならず全人類のためです。私達も「起きて祈ること」が求められています。それは24時間起きているという意味ではありません。肉体的には眠る必要はあります。本日の箇所は、イエス様が殺される前夜くらいは、肉体的にも起きてイエス様と共に徹夜祈祷をすることが神の御心だったのです。レント中の私達も様々な誘惑を受けることでしょうが、祈ることにより霊的に目覚めていたいものです。

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