安息日の主
毎週日曜日をキリスト教では主日としています。言い換えれば新約時代の安息日です。それまでの旧約時代は、土曜日が安息日でした。ユダヤ教の掟でもあり、イエス様の時代もそうでした。主日は、この世から聖別された日で、聖日とも呼びます。以前、多くの教会で「聖日厳守」と言われていました。クリスチャンは極力、礼拝出席すべきという姿勢です。しかし、最近はあまり聞かなくなりました。それは、礼拝を休みがちな信者へのプレッシャーになるからでしょうか?まず、安息日という言葉から何を連想しますか?「安息」を辞書で調べると「心安らかに寛(くつろ)ぎ休むこと」とありました。ある人は、教会に通っても人との交わりに気を遣うので安息にはならないとのこと。世の中には気を遣うことも楽しい人もいるでしょうが、少数派でしょう。平日に職場で気を遣っているので「日曜日は家にいたい。午前中から教会へ行くなんて」という声もあります。でも、聖書では安息日を重んじます。その安息は人同士の交わりからくるものではなく、神との交わりこそ真の安息、つまり魂の平安を与えます。神に気を遣うことなど有り得ません。神は、私達の心を含め全てを御存知だからです。むしろ、神が見える方だったら怖いかも知れません。私達が罪を犯すたびに、厳しい視線を感じるからです。逆に見えない神だからこそ、神を忘れて罪を犯してしまうとも言えます。
今年度から上町教会のCS礼拝のプログラムに「十戒」を取り入れました。その第4条に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とあります。これは第6条の「殺してはならない」の上位にきます。旧約聖書では安息日の違反者には死刑が適用されます。実は、死刑となられた方こそイエス様です。ここが神の視点と人の視点の違いです。イエス様は、常に御自分の最期は死刑ということを御存知でした。その十字架の道を歩む直前に弟子達にも告げられますが、まだ秘密です。「弟子達に話す」という神の時が来ていないからです。一方、イエス様の弟子達でもファリサイ派でも、人は神の予定は知りません。今の私達は聖書物語から、その展開は知らされています。その神の視点で聖書を読むことが許されています。只、今後の私達の生活の中での現実の予定は分かりません。だからこそ、全知全能の神に祈って委ねる信仰になるのです。
神は配慮なさる方です。特に事情もなく、祭司でもない者が神に献げたパンを勝手に食べたら問題です。今回、麦の穂を摘む行為は、安息日以外でも出来ることではあります。でも、イエス様が良しとされたのです。それで、新約時代から安息日となった日曜日の仕事も許容されている面はあります。労働といっても教会の中での奉仕は勿論、ありますし、礼拝前に早朝、コンビニでバイトして来たとか新聞配達をすることも可でしょう。また礼拝後に仕事をしても許されます。安息日を聖別して、神への礼拝を献げることが大事なのです。絶対的なことと原則を混同することがあります。「聖日厳守」は絶対的な響きがあります。礼拝を守ることはクリスチャンとして原則ですが、絶対ではないのです。 礼拝は、絶対者なる神に献げる姿勢です。礼拝=絶対ではなく、神のみが絶対です。それをファリサイ派は律法=絶対としていました。確かに律法の中に安息日の規定はありますが、それは人のために定められたのです。安息日=絶対でもない、つまり「安息日という名の神」を拝んではいません。
人の子とは、イエス様のことですが、そのイエス様が主と言われたことは「私は主なる神である」という神宣言です。人として最期は死刑囚となられる方。勿論、御自分の罪のためではありません。私達の罪のために死なれたのです。この神の愛を知った時に感謝の礼拝が献げられます。新約時代の礼拝とは、神の愛への応答です。逆に律法から信仰に入った者がファリサイ派の人々です。律法を守ることこそ信仰、それも律法以外の伝統まで重んじて形式主義、イエス様に偽善者とまで言われました。イエス様が来られたのは、当時のユダヤ教への宗教改革でもあります。中世のマルチン・ルターの宗教改革を遥かに凌ぐ出来事ですが、イエス様は処刑されたため、宗教改革も失敗と思われます。実は失敗どころか大成功でした。それを証しするのが、イエス様の死からの復活です。その週の初めを日曜日として聖別したことに新約時代の到来を意味しています。律法だけでは分からない神の御心は、神の愛によって証明されました。その愛も自力では信じられません。聖霊なる神の働きです。イエス様を信じた上で、律法も守り、安息日を重んじて主日礼拝を献げることこそ、健全な信仰です。父なる神を礼拝するということは、神の子イエス様を礼拝の対象として十字架を見上げるのです。十字架はシンボルなので、拝む対象ではありませんが、十字架に掛けられた方が「安息日の主イエス・キリスト」です。