イエスの悲しみ
安息日は何のためにあるのか?先週のテキストで学びました。人のために、それも人が神に礼拝を集中して献げるためにあります。信者にとっては大事な日ですが、無神論者には「神への礼拝?私は神など信じてもいない」となりナンセンスな話です。人のためになら、自己中心に自分の安息のために昼寝をしたり、レジャーを楽しむ発想になります。神から見たら、的外れな安息日の過ごし方です。宗教熱心なファリサイ派が安息日を守ること自体は間違ってはいません。問題は、ここでも安息日を守る心の動機です。そして、神もまずユダヤ人に安息日を与えた意図があります。旧約聖書 出エジプト記23:12参照。6日間は仕事をするのが原則です。
昔の日本には、日曜日がなかったようです。勤勉な日本人は、休日なしに朝から晩まで働いた人が多かった結果、高度経済成長から資本主義先進国にもなれました。皮肉な意味で「エコノミック・アニマル」と呼ばれた時期もあります。キリスト教文化を取り入れて欧米に倣って、日曜日は休日にする職場も増えました。そんな中でも礼拝を重んじるクリスチャンは、日曜日に出勤はせずに教会へ向かいます。午前は礼拝に出て、午後にやっと休息と思っていた人もいるでしょう。現代では週休二日制の職場が増えました。土曜日も休日で、その翌日に教会へ行くことになります。只、教会へ義務感で行くと、安息日という実感は薄れるでしょう。
イエス様は「安息日の主」として会堂に入られました。ファリサイ派の人々の話とは違い、神の権威からイエス様は語られてきました。その会堂に片手の萎えた人がいました。このような身体障害者は、ファリサイ派から見たら神から呪われている人です。会堂から追い出したいところ、人々は好奇心からイエス様の様子を見ていました。イエス様は、患者?を見て憐れんでおられます。安息日であることは御存知ですが、この日に治さなくては命が危ない状態ではありません。明日、治せばいいのですが、イエス様にも宣教活動の予定があります。それ以上に安息日の本来の意味を人々に伝えたかったのです。イエス様は患者を会堂の真ん中に立たせました。患者としては周りの目を恐れ、隅の方にいたかったかも知れません。イエス様は、はっきりと質問をなさいました。答えは至って簡単です。安息日に律法で赦されることが悪を行うこと、殺すことではないことは明白ですが、人々は黙っていました。ファリサイ派と対立したくないからです。
先月、相撲の土俵に女性は上がれないことが物議となりました。相撲の伝統として代々「女人禁制」があるのですが、京都の舞鶴市で男性の市長が体調不良で土俵上で倒れてしまいました。その時、医療関係者の女性が心配して土俵へ上がったら「女性の方は土俵から降りて下さい」とアナウンスされました。この時「人の命より、伝統を重んじるなんて」と相撲協会に批判が集中しました。
イエス様も人の命を重んじられます。その命が更に永遠の命に繋がることを望んでおられます。イエス様は、返事すらしない人々に怒りました。見回しても悔い改めの声は聴かれないことに悲しまれました。人々が安息日の解釈や過ごし方に囚われて、目の前に病人がいるのに憐みの心がないことが一番残念です。逆に、イエス様を訴えたいという悪意があり、イエス様の言動や行動から罪は見いだせないかと試しているのです。それでもイエス様は安息日にも関わらず、神の御心を行われました。「手を伸ばしなさい」という御言葉に、障害者は従いました。神癒が起きたのです。この愛の御業を見て、私達は神を賛美します。しかし、そんなことは書いてありません。ファリサイ派の人々は、安息日に罪を犯したという思いからイエス様に殺意を持ったのです。それも、普段は仲が悪いヘロデ派と組んでイエス様を合法的に葬ることを相談するのです。
この頑(かたく)なな心を持ち続ける人々は、私達の周りにもいます。何も、イエス様に敵対しなくても、御言葉を受け入れない人々は、聖書の御言葉よりも自分の考えを大事にしています。私達も元々は頑固者でした。いや、クリスチャンになっても、日々の生活の中でイエス様を悲しませてしまうことはあります。でも、イエス様の招きは変わりません。その十字架の愛に応えるためにも祈り、日曜日を安息日として聖別するのです。イエス様の体なる教会へ行ってみましょう。