聖化の恵み
先週の「新生の恵み」は、どんな人にも必要であることを学びました。イエス様の十字架の愛を信じて罪が赦され、神と共に歩む新しい人生の素晴らしさです。続く「聖化の恵み」には消極的なクリスチャンも少なくありません。つまり「新生だけで充分、聖化なんて堅苦しい。イエス様のような清い方にはなれる筈もない。人間らしく生きたい」ということでしょうか?
「人間らしさ」という言葉の解釈にも2通りあります。1つは、聖書ではクリスチャンでも「赦された罪人」という認識です。これは新生しても、罪が消えたわけではないので、クリスチャンが罪を犯しても変ではないのです。罪を悔い改めても、また罪を犯す自分が嫌になったことはありませんか? 2つ目の解釈は、イエス様こそ本来の「人間らしさ」の模範となられた方という視点です。そうでなければ、神が人となられた意味が問われます。確かにイエス様の十字架上での死は私達の罪を贖うためですが、それは最終目的です。実は、その前のイエス様の生き様自体にも目的がありました。それは福音書で充分、証しされています。罪がない清いイエス様は、父なる神と親しく交わり、弟子達を始め人々に神の御言葉を伝えました。また、必要に応じて様々な奇跡も行いました。ということは、奇跡自体は目的ではなく、手段です。私達は、手段を目的とし易いので、神の御心が読めないのです。病気が治されたから、目的達成ではありません。その病を癒して下さった神と共に歩むことを目的とすべきです。
イエス様は、ズバリ神の似姿です。最初の人類アダムも神の似姿でした。これでわかるように人間性の回復があって本来の「人間らしさ」ではないでしょうか?その都度、「罪を悔い改める」姿勢は尊いものですが、罪を犯す自分に愛想をつかした人が妙な言葉を使いました。それは「罪の居直り」です。「赦された罪人」という言葉を利用して「罪人だから、罪を犯すものだ。気にしない」と思うようになったのです。祈りも形式的、または御利益的な願い事を中心とします。これは本日のテーマを必要としない姿勢です。
聖化は「四重の福音」の2番目の神学ですが、ホーリネス信仰の中心です。ホーリネスは聖書全体からの信仰を目指しています。聖書は英語でバイブルですが、直訳すると「ホーリーブック」です。聖なる神の性質を一番強調したいのです。聖なる神は罪は大嫌いですが、愛なる神は罪人を救おうとされています。これは究極の矛盾でしょう。その矛盾のためにイエス様は死なれたのです。6節の後半に罰という言葉があります。この罰は、イエス様が身代わりで父なる神から既に受けられました。主の十字架は、もう人類に罰を与えないための宣言ではなかったのでしょうか? P406ヘブライ人への手紙6:4~6 聖なる神は容赦なさいません。この御言葉を聞かなかったことには出来ません。全て神の御心です。新生体験がない人々は、真理には無知のまま、悔い改める信仰もなく歩んでいます。一般的には、人として悪いことしたら反省するという次元です。でも、受洗してクリスチャンであるからには新生された者として更に「聖化」を祈り求めるべきです。
私達は、イエス様の似姿を目指すといっても、100%清いイエス様よりも元・罪人「自称・罪人の頭」であったパウロの信仰を学ぶことも知恵です。パウロは聖化されてイエス様の似姿です。イエス様本人にはなれませんが、イエス様に似た伝道者でした。ある人がイエス様とパウロでは聖書を通しての印象は随分、違うと言いましたが、それは個性の違いでしょう。冷静沈着なイエス様と情熱的なパウロですが、価値観は同じです。悪い個性である自我は砕かれるべきですが、良い個性は神の栄光のために生かされるべきものです。パウロが地上に生きていれば、「赦された罪人」ですが、約2000年前に既に死んで召天した人物です。天国のパウロには罪がなく聖徒とされた1人です。地上のクリスチャンを聖徒と呼ぶこともありますが、正確に言えば「天国に凱旋することで、聖徒とされる約束を受けている人」という意味です。これは先取りの信仰です。
9節から兄弟愛についても、書かれています。兄弟という表現自体がイエス様を信じての兄弟姉妹という霊的意味です。霊に対して肉的な意味とは何か?殆どの人が、同じ親から生まれた兄弟関係のことを連想するからです。また、同じ創造主なる神から造られた兄弟姉妹という信仰的な考えもあります。言い換えれば、アダムとエバの子孫、お互いに罪はあっても愛し合おうという信仰です。テサロニケの信徒達は、それを実行していますが、更なる継続性が求められています。私達も、今の信仰生活が健全に守られているなら神に感謝すべきですが、今後も、その恵みが継続することを祈るべきです。信仰も神からの賜物です。日々の健康、食物があるのも当然ではありません。神から与えられること自体が恵みであり、新生に続いて聖化も恵みの賜物なのです。