福音の種蒔き
イエス様は地上に来られた以上、世の中の事柄を用いて例え話をされます。天国の話を地上の人間にストレートに伝えても解らないからです。種まきといえば日本にも農業はありますが、米を収獲するためには田植えなどは丁寧に行われます。只、イスラエルの種まきは、種を一握りづづアバウトに土地に蒔くという方法です。それこそ、日本では2月の節分で豆まきをするように所構わずに雑に投げることにも似ています。キリスト教では、豆まき等はしませんが、種まきを常時、行います。福音という見えない種ですが、その種の中には命が宿っています。 種まき行為は伝道の姿勢にも繋がります。イスラエル人の農家の人が種を蒔くとき、土地を選ばずに蒔きます。同じように福音を伝える人は、人を選んだりはしません。神の選びはあっても、人が人を選ぶわけにはいきません。これは、伝道する人は相手が誰であろうが聖書の御言葉を正しく語るということです。語る側が、この人に語っても仕方ないと思うようでは姿勢として間違っています。勿論、どんな人であっても実を結んでクリスチャンになるようにと祈り願って蒔いていきます。
福音とは、良き訪れです。このグッドニュースという福音理解も各々です。聖書当時の人々にとって病の癒しは切実な願いだった筈です。イエス様が来られ、瞬時に病を治す神業は、「この福音を待っていたんだ」と飛びついたことでしょう。最近の西日本の豪雨災害の人々もライフラインが中断してしまった人々は、その復旧作業から水道の水が出るようになったということが福音になります。そういう意味でも、当時の需要に応えたイエス様は正に救世主です。そのイエス様の御言葉は真実です。イエス様に繋がり続けることこそ、実の豊かな祝福が保証されています。
聖書の御言葉を一部ではなく、全体から読み取ること、言い換えればイエス様の話を最後まで素直に聴く姿勢こそ、良い土地ではないでしょうか?最後まで聞いていないのに、自分には無理だと諦めているなら勿体ない話です。自分の心が御言葉によって耕され、良い土地に変えられることを自分の熱心さではなく、聖霊に期待すべきでしょう。実は、このテキストからも8節は、聖化を語っているのです。実が結んだ者の30倍、60倍、100倍という数字に表れています。この状態の土地が聖化された心の証しとなります。
本日は伝道礼拝ですが、聖化を語っていけないことはないでしょう。神の祝福が実り多き人生としてメインとして備えられているのです。伝道の段階としては心に福音の種が蒔かれて聞き流してしまうか、心に留めるかが問われてます。イエス様は例えとして種まきと土地の関係を示されました。
良い土地というのは、実は結果論です。神は結果も定めておられますが、その種が蒔かれた土地に神が肥料や雨水を与え、絶えず耕して下さるのです。祈りなくして、神は成長させて下さいません。30倍、60倍、100倍という数字に現れるような人が、結果として良い土地、つまり信仰姿勢だったと言えるのです。福音の種を蒔かれた私達は、自我や欲望を捨てて、聖霊の導きに従うことを目指していきましょう。