良い土地
古代社会の人は、現代と違い神の直接的な作品に囲まれて生きていました。本日のテーマにもある土地、部分で言えば土です。現代の車社会はアスファルトで舗装された道路が大半です。森の道などは土も見えますが、古代には舗装された道などありません。最初の人アダムは、神によって土から造られました。神は土を使って命を誕生させました。土は人が返るべきところです。最近でこそ、日本では死者を葬る時、火葬して遺骨のみを残しますが、以前は土葬が多かったものです。先週の続きですが、イエス様は結論として私達の心が良い土地として整えられることを望まれています。
イエス様の例え話は、真理をストレートには語っておられません。例え話自体に拘ると人間の都合がいいようにも解釈できます。イエス様の12弟子たちは、この例え話に興味を持ちます。「主は思わせぶりに何を仰りたいのか?みんなが種を蒔く仕事をしてはいないのに」と。イエス様は、12弟子たちが神に任命されている特別性を自覚させます。神の国の秘密とは?地上と神の国の違いは?それは現代では教会には何故、十字架がある?日曜日を主日と呼び、毎週礼拝をする意味は?との問いにも繋がります。特に教会では、聖書の内容、教会学校では、一般の学校では教えない話を子ども達にしています。
イエス様は12弟子たちが、イエス様が世から去られた後に独立して「福音の種蒔き」をすることを御存知です。11節にある外の人々とは、御言葉を聞いても理解しない人たちのこと。一見、冷たい御言葉に聞こえても、厳然たる神の選びがあるのです。旧約時代は、イスラエル民族が神に選ばれていると思われていました。その中で律法学者やファリサイ派の人々はエリートです。彼らは、イエス様を認めていませんから、逆にイエス様から見たら彼らは外の人々に属するのです。勿論、悔い改めてイエス様を信じれば別ですが、多くの預言者が何度も悔い改めを勧めてきたのに拒み続けてきました。イスラエル人に生まれた=神の選民とは傲慢です。最後にユダヤに送られた神の子・イエス様を信じない者は異邦人のように扱われることを預言されています。それが神の国の秘密として弟子たちに打ち明けられているのですが、弟子たちは理解できていません。
石だらけで土の少ない土地に落ちた場合、利益的な姿勢です。教会へ行ってみた人が、根がないため「自分が思い描いていた場所ではなかった」という理由で教会生活は一時的ということもあります。最初は素直に喜んでも、持続性がないため艱難や迫害に弱く忍耐力がありません。耐える力を下さいと祈る発想もないのでしょう。茨に蒔かれるとは、世の中のことに翻弄される人です。結婚して家庭を持てば思い煩いも増えます。子どもが出来れば育児の問題もあります。それで、パウロなどは伝道に集中するために生涯独身でした。カトリック教会の神父も独身の姿勢を献身の形として表しています。思い煩いは嫌なことですが、人間的には魅力的なことが誘惑として心を支配することもあります。いずれも御言葉どころではない心の状態です。私たちが御言葉を聞いても、喜びや平安に満たされない時は、心の状態が良い土地にはなっていないのでしょう。
現代社会は、物質豊かで便利でいい面もありますが、神を見失いやすい世界でもあります。ネット社会にも現れますが、多様性の複雑さもあります。文明の主(ぬし)は神ではなく人間と思う傲慢さに人類の悲劇があります。特に都会に行くほど、誘惑を強く感じることもあるでしょう。それでクリスチャンは、自然を通して神を崇めたり、周りの騒がしい環境から身を引いて1人の聖別された時を神に献げるのです。霊的密室とも呼びます。毎年行われるバイブルキャンプでは、共に礼拝を捧げ、神を賛美する時と別にデボーションの時も持ちます。確かに都会の繁華街でキャンプを行う教会などは、聞いたことがありません。
私達の心は環境次第で変わり易いですが、御言葉と祈りによって心が整えられたら良い土地として神に認められます。人は言い訳をし易い生き物です。環境が悪いから実りある信仰生活にならないと。それでは、都会に住むクリスチャンは、誘惑が多いため神の御心に適う信仰生活はできない、つまり「都会=良い土地にはならない環境」と決めつけてもいけません。誘惑になる事柄に対しては神からの知恵を用い、様々な誘惑を避けましょう。都会でも自然豊かな場所でも、神と正しい関係をとれば、そこは良い土地になる筈です。正しい関係とは、神に祈り求めて、聖霊の力で「良い土地」として、神の前で素直な心に耕して頂くことです。